2006-01-01から1年間の記事一覧

ジャ・ジャンクー

ジャ・ジャンクーは映画をまず声を聞かせることから始めます。『一瞬の夢』冒頭のバスを待つ人々の映像にかぶさる音源のわからない京劇風の男女の掛け合い、『プラットホーム』で劇場にたむろする人々の話し声とそれに続く青年団の芝居開始の口上、『青の稲…

上演の映画

ドゥルーズは芸術を、機械的な悪しき反復が自由で豊かな反復へと反転し上演される舞台として捉えています。 「それぞれの芸術には、瓦のように重なり合った諸反復のテクニックがあり、その批判的かつ自由な力能は、わたしたちを、習慣の陰気な諸反復から記憶…

『生きるべきか死ぬべきか』

ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』において、このハムレットのセリフが発せられると、必ず誰かが劇場の外へ抜け出します。それは、演劇を劇場の外へと脱領土化し、ヒットラーが世界規模で上演するファシズムの舞台上へと解き放ち、めまぐるしい真偽の反…

ジュネの音楽

「(…)三つのグループとも、それぞれ異なる歌い方をした。ふつうは斉唱だが、子供の兵士が自分で選んだところで二音か二音半高く顫音(トリル)で歌うのに備えた場合は別だった。このときコーラス隊は、まるで先祖に道を譲り、自分たちは引き下がるようにし…

ポンス/チェルケッティ

『カーネギーホール』のリリー・ポンスの歌声の傍らに、ウルマーがもう一方で好んだ『アメリカン・マッチメーカー』のイディッシュ語ソングや『恐怖の回り道』のジャズといった世俗音楽を置いてみると、ヴェルナー・シュレーターが『愛の破片』でベッリーニ…

『カーネギーホール』

ウルマーの『カーネギーホール』に採録された音楽家たちの演奏は、カラヤン的なロマン主義的情緒とは無縁な音の硬質さと明晰さによって特徴づけられているように思えます。ドリーブの「鐘の歌」を歌うリリー・ポンスの歌声は、まさに脱性化された機械状アレ…

声の機械状化

ドゥルーズによれば、音楽は「声の脱領土化」によって始まります*1。男女それぞれに特有の響きによって領土化されている声が、性差を乗り越え、「つまりアレンジされ、ある特有のアレンジメントを見出し、自らがアレンジメントとなり、機械状のものとなった…

民衆と芸術作品

「人間の闘争と芸術作品のあいだにはいかなる関係があるのか?」という問いにドゥルーズはこう答えています。 「この上なく密接で、私にとってこの上なく神秘に充ちた関係です。まさにパウル・クレーが、「わかるでしょう、民衆が欠けているのです」と言った…

ダニエル・ユイレ追悼

ルドルフ・トーメの日記より(抜粋) 2006.10.11 昔、私にとってジャン=マリー・ストローブは神であり、ダニエルは女神だった。というのも彼らは、映画において何が良く、何が悪いかを知っていたからだ。いま、映画もまた死のうとしているのだろうか?私…

「ベレジーナ」

スイスで移民・難民排除法案が国民投票にかけられるといいます。ダニエル・シュミットの完成された作品としては最後になった「ベレジーナ スイス最後の日」を、彼が死んだいまこそ全世界が見直さねばならないでしょう。ロシアからの不法移民の娼婦が無名の民…

「あの彼らの出会い」

ヴェネチアで特別賞を獲得したストローブ=ユイレの「あの彼らの出会い」(Quei loro incontri)は、「雲から抵抗へ」の第一部に使われたチェザーレ・パヴェーゼの「レウコとの対話」の最後の5つをテクストとしています。各章が二人の役者によって演じられ、…

口承文化

「バイエルン地方の原始林を出自とする農民のために作られ」、「ベトコンに捧げられた」*1『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』(1967)以来、無名の民衆のためのものとしての映画を何よりも聴くべきものとして撮り続けているストローブ=ユイレ。ストロ…

映画と民衆

映画は、一方で民衆の日々反復される労働をカメラなど機械類の回転運動の反復性との相似において記録し、手仕事によって結ばれた民衆の共同体を示すドキュメンタリー性を指向しながら、もう一方で民衆の語り、あるいは民衆劇といったやはりある種の反復性を…

『満山紅柿』

小川紳介+彭小蓮の『満山紅柿』にはドキュメンタリーとフィクションという映画に本質的な二方向において、民衆と映画の関わりについての重要な示唆があるように思えます。一方で、映画は民衆の手仕事を記録する労働であり、手仕事によって結ばれた民衆の(や…

映画的主体

『ロベレ将軍』にロベレ将軍が一度も登場しないのと同様に、ダグラス・サークの『心のともしび』では、死んだフィリップ医師の肖像が存在するにもかかわらず、それが観客の目に触れることはありません。フィリップ医師はその不在によってボブの心に「取り憑…

『ロベレ将軍』

ロッセリーニの『ロベレ将軍』にロベレ将軍は一度も登場しません。つまり、ロベレ将軍は実体のない名前だけの存在、パルチザンがその名前のもとに結束するいわば象徴です。ヴィットリオ・デ・シーカ演じる主人公、詐欺師バルドーネは、ナチスが将軍を捕らえ…

『Fフォー・フェイク』

『Vフォー・ヴェンデッタ』とのタイトルからもわかるように、この作品はウェルズの『Fフォー・フェイク』へのオマージュとなっています。ヒロイン、エヴィーの父の言葉として語られる「作家は真実を語るために嘘をつく」は、『フェイク』のラストのセリフ…

『Vフォー・ヴェンデッタ』

ジェームズ・マクティーグの『Vフォー・ヴェンデッタ』は、テロの脅威を理由に生活の隅々まで監視し、メディアによる情報操作をとおして国民を手なずけようとする現在のアメリカや日本のような国家権力への批判となっています。すでにアメリカは自ら引き起…

『イッツ・オール・トゥルー』

オーソン・ウェルズの未完の企画『イッツ・オール・トゥルー』中の「いかだの四人」のエピソードは、ブラジルの貧しい漁村から四人の男が社会保障を求めてリオ・デジャネイロまで航海するいかだの帆となる白布にまずサン・ペドロという船名が書き込まれるシ…

『メシア』

ロッセリーニの『メシア』は、後期の特徴であるズームによって遠方から役者にそれと気づかせないまま顔のアップを撮影する手法を用いながら、ロングショットで捉えられる民衆の中の一人としてのキリストに焦点が当てられています。ゆるやかな移動撮影が捉え…

ムージルの映画論

ローベルト・ムージルは「新しい美学へのきざし」としての映画を論じたエッセー*1で、映画においてはすべての事物が「観相学的印象」あるいは「象徴的相貌」を与えられるというベラ・バラージュのテーゼを取り上げながら、「世界は物と物からなる関係として…

『言葉とユートピア』

ルイス・ミゲル・シントラ演じる壮年のヴェイラ神父が、布教の武器としての音楽と言葉をダビデの竪琴と投石器に喩えるおそらくこの映画中で最も美しい説教の最中に一瞬イタリア語を間違え、スウェーデン女王の失笑を買うとすかさず、「すべての言語を操る者…

『心のともしび』

ダグラス・サークは『心のともしび』についてこう語っています。「私のいちばんお気に入りの企画は、盲人の家に映画セットを作ることでした。たえずあたりを叩き、眼に見えない物を掴もうとする人々だけがそこにはいたでしょう。ここで私がじつに面白いと思…

『アシク・ケリブ』

『アシク・ケリブ』の様式化された演劇においては、役者が盲人を演じるのではなく、たんに目隠しをすることで比喩的に表現される盲人たちが楽音をたよりに手探りで詩人の回りに集まる結婚式や、聾者の無音の世界を逆に流れ落ちる滝のさざめきによって表現し…

『フランシスカ』

死んだジョゼ・アウグストの義母リタ・オーウェンからの手紙を、窓の光を背にして読むジョゼの義姉ジョゼファの姿を捉えていたカメラが、『ベニスに死す』を思わせるゆるやかな旋律とともに前進し、フレームアウトしたジョゼファの背後の白いカーテンを映す…

ゴダールの「もうひとつの映画」

60年代にリュック・ムレとともにパゾリーニの記号学への傾倒を批判したゴダールは、時とともにその立場を微妙に変化させながら、『映画史』3Aのイタリア映画讃歌のラストでロッセリーニに次いでパゾリーニの肖像を映し出し、そこに形式と思考についてのテー…

パゾリーニの「もうひとつの映画」

パゾリーニが提唱する「ポエジーとしての映画」*1とは、本来、「人間の始原の次元に属している」身振り、環境、夢、記憶などの「イメージ記号」において、「語りに関しての伝統的な約束事によって久しく抑圧されていた表現の様々な可能性を解き放」ち、「事…

『フォーエヴァー・モーツァルト』

たえざる中断とエピソード的シーンの連結、そして悲喜劇的な醒めた演技という叙事演劇的特徴を備えたゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』は、マルローの『希望』のオーディションで連発されるノン、書店でマリヴォーを探すジェロームが発するノン、…

『火刑台上のジャンヌ・ダルク』

『火刑台上のジャンヌ・ダルク』では、豚の裁判長、羊の陪審判事、ロバの書記、カードゲーム化された戦、酒樽母さんに石臼おやじといったアレゴリー的形象によって演じられる個々の演劇シーンが、天使によって翻訳された本の頁として提示され、同時に天上か…

キアロスタミ

キアロスタミはかつて、『桜桃』の登場人物について次のように語っていました。 「私は観客とのあらゆる情緒的繋がりを避けるために、男の物語を語りたくありませんでした。私の登場人物は、建物の規模を示す目的で建築見取図に描かれる人間のようなものです…