2007-01-01から1年間の記事一覧

『ヒズガール・フライデー』

ホークスの『ヒズガール・フライデー』の死刑囚は、公園で聞いた演説中の「有効需要」という言葉に無意識のうちに支配され、精神喪失状態でその言葉に反応して、手にしていた銃の「有効需要」のために警官を殺害したと言われます。ホークスが、この殺人犯と…

『愛の予感』

『東京物語』で尾道のポンポン蒸気のエンジン音がラストで原節子が開ける懐中時計の音へと繋がっていくように、小林政広の『愛の予感』では、すべての物音が日常の反復を刻む秒刻として響いています。特に渡辺真起子がボールで卵を溶き、フライパンで焼く音…

ジャ・ジャンクー『無用』

ジャ・ジャンクーの新作『無用』は、「無用」ブランドを立ち上げるファッションデザイナーのマー・クーを扱った部分がひどく味気ないのに対して、フェンヤンの仕立て屋や炭鉱労働者を撮ったとたんに映像が生き生きとして、ジャ・ジャンクーが本当に楽しんで…

トーメのモアナ日記より

新作『みえるものと見えないもの』でヘッセン・フィルム=映画賞のOKI奨励賞を受賞したルドルフ・トーメに対するエステル・シュヴァインスの祝辞。(2007年10月17日のモアナ日記) 「ヴェンダースは書いている、「『紅い太陽』の中で人々はたえずしゃべりつづ…

『紅い太陽』

ルドルフ・トーメ『紅い太陽』*1をめぐるインタヴュー by Thomas Winkler*2 TW:当時、映画は政治的武器と理解されていました。1962年に一群の映画作家たちがおじいちゃんの映画は死んだと宣言し、これ以後明確に政治的映画を作ろうと主張したオーバーハウゼ…

ペソア

「 私は自分のうちに様々な人物を創造した。私はたえず人物を創造し続けている。私が見るとすぐに、どの夢も例外なく誰か他人によって生きられ、この他人がそれを夢見はじめる。夢見るのは彼であって、私ではない。 創造するために、私は自分を破壊した。自…

ジャン=クロード・ルソー

「結末について考えること、なによりも結末について考えること。結末とは、スクリーンという表層でしかない。」(ブレッソン)

『街角の天使』

ジャ・ジャンクーに監督になる決意をさせたというユアン・ムーチー監督の『街角の天使』(1937)は、長屋のような狭い部屋に暮らす貧しい青年たちが通りを隔てた向こう2階の姉妹の妹(チョウ・シュアン)の気を惹こうと奇妙なパフォーマンスをするところなど…

あんにや

大地へのロマン主義的回帰を謳って全共闘世代を率いていた谷川雁のはるか先を行っていたがゆえに、必然的に日本の市場システムから排除されざるをえなかった詩人・黒田喜夫の故郷には、「兄やん」を指すのに「あんつあ」と「あんにや」という二つの言葉があ…

ラウル・ルイス

ピエール・クロソフスキーは、パリ亡命中のベンヤミンとともに『複製技術時代の芸術』を仏訳し、戦後はフランスにおけるニーチェ受容(とくにドゥルーズ)にとって翻訳と理論の両面で重要な役割を果たしたけれど、ピノチェト政権下のチリから亡命してパリに…

モンテイロのオリヴェイラ論

『過去と現在』 マヌエル・デ・オリヴェイラのポルトガル・ネクロフィルム(1972年3月10日)より抜粋*1 (…) 『過去と現在』は、ひとつの世界についての省察ではない、――世界自体が鏡に映され客体化されるひとつの世界である。映画の登場人物たちは、自分自…

モンテイロとストローブ

ジョアン=セーザル・モンテイロ「セルフ・インタヴュー」(1969), Ed. Yellow Now, 2004に仏訳及びストローブ=ユイレによるオマージュ自筆原稿。">*1より 「(…)文通をとおして私が愛しており、豊かなドイツにいながら空腹で死にかけているシネアスト――…

エリセのモンテイロ論

悲劇のサイコロ(ジョアン・セーザル・モンテイロ)*1 ヴィクトル・エリセ ジョアン・セーザル・モンテイロは、同世代の映画作家の小さな家族の一員として、私にとって不可欠の参照対象であったし、今後もそうあり続けるだろう。定まった住処をもたないコス…

モンテイロとニーチェ

シネマテカ・ポルトゲーザ出版のモンテイロ本の編纂者の一人ジョアン・ニコラウによれば、『行ったり来たり』のオリジナル・シナリオでは、最初と最後以外のシーンはすべてプリンシペ・レアル広場に設定されており、そこでベンチに坐ったジョアン・ヴヴーが…

モンテイロのパリ日記

1999年8月8日から15日までパリでヴァカンスを過ごしたモンテイロのパリ日記より。*18月9日月曜日 遅起き(10時過ぎ)して早糞。子羊の糞が夜の間にかさを増やし、雄山羊の糞の大きさにまでなるとは予期してなかった。この消化循環の、困難な絞り出される贖罪…

リスボン

リスボンの地下鉄駅バイシャ・シアードの出口にあるカフェ・ア・ブラジレイラの前には詩人フェルナンド・ペソアの像が座っていて、それに隣接するカモンイス広場には大航海時代の詩人ルイス・ド・カモンイスの像が立っています。カモンイスは叙事詩『ウズ・…

解体社公演

ほぼ15年ぶりに解体社の公演を見ました。電子テクノロジーという監獄の中で機械によって認証される数字へと還元される「幻影」としての身体が、それでもそこに「存在してることの意味」を問う作業を、解体社はすでに80年代から続けてきたように思います。特…

寺山修司

母から解放されようとして、かえって母に囚われ、それによって多くの読者を獲得した寺山の作品に魅かれたことはないけれど、もし彼が酒を飲み過ぎずに長生きしていたら、別のあり方も可能だったのではないかという思いはずっともっています。例えば、わらべ…

岡本太郎

岡本太郎もまた人間の声に対して鋭敏な耳をもっていました。 「人間の声のたとえようもない微妙な展開は、生活自体と同じように自在であり、乱れたものだ。乱れていながら、ハーモニーがある。それは生存のリズムだ。春夏秋冬という四つの周期があって、整然…