2010-01-01から1年間の記事一覧

トラス・オス・モンテス

自己のうちに沈殿している風景と、民衆の無意識の風景との重なり。泣いている子供、不毛の土地、リップ・ヴァン・ウィンクルの不安。

藤沢秀行

鈴木清順は碁打ちの藤沢秀行についてこう言っています。「将棋には『王将』という映画があるが碁にはない。奇想天外な碁打ちがいなかったからだが、藤沢さんは碁で大ポカの藤沢といわれるくらいで、人生でも八方破れをやらかすらしい。」だから相米慎二は藤…

清順

鈴木清順のエッセイを四方田犬彦が編集してるのに終末を感じながら、仕方がないので買った。

花田と尾崎翠

花田清輝の尾崎翠評 「これは、ここだけのはなしですが、いまでもわたしは、ときどき、いっそひとおもいに、植物に変形してしまおうかと考えることがあります。そして、そんなとき、きまって私の記憶か底からよみがえってくるのは、尾崎翠『第七官界彷徨』と…

浜野佐知『こほろぎ嬢』

東京にいた頃の尾崎翠は、フランク・ボザージの『第七天国』をもじって中野の武蔵野館に「第四天国」を希求するほど一人映画館の暗闇で過ごすのを好みました。彼女は、「雲とか、朝日のけむりとか、霧・影・泡・靄なんか」に似た「膜の上にちらちらする影の…

尾崎翠

浜野佐知の『こほろぎ嬢』は素晴らしかった。

ゲーテ

「対立する二つの意見のまん中に真理があるといわれる。だがけっしてそんなことはない。その中間にあるのは問題なのだ。それは目に見えぬものであり、静止状態にあるとして考えられた永遠に活動的な生命である。」開けられない小箱の物語としての『遍歴時代…

ジョニー・トー

『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』、マカオ舞台のポルトガル風マカロニウエスタン。記憶喪失のジョニー・アリディー。

ブランキ

「だが、何十億という地球の上で我々が、今はもう思い出にしかすぎない我々の愛する人々といつも一緒にいるのだということを知るのは、一つの慰めではないだろうか?瓜二つの人間、何十億という瓜二つの人間の形を借りて、我々がその幸福を永遠に味わってき…

日付

それぞれの日付は一回限りでありながら反復する。 日付の円環とは、どのような振り返りなのでしょうか?

振り返り

振り返るとはどういうことでしょう?赤坂大輔は『Mask』と題された短編で、「ロッセリーニはバーグマンを振り返らせた、その後、彼はポール・クローデルの『ジャンヌ・ダルク』を作った。溝口は絹代を振り返らせなかった。」と語っています。*1歩くバーグマ…

佐渡

灰色の海にうかんだ 思い出のなかのあの島は ちっぽけな胴体から 北と南へ おもいきり翼をひろげ 暮れかかる空にむかって ヒラヒラと飛び立とうとする 大きな蝙蝠そっくりだ ああ、あの島でわたしは 不意に役者になったのだ 鳥でも獣でもない そして同時に …

忘れられた物たち

「いまの若い人たちが蓮實重彦さんの批評にいかれてハスミー風邪をひいたのと同じように、私の時代は花田清輝の批評に魅せられて、みなその花粉症にかかっかた。」*1と回想する佐藤重臣は、ブニュエルとともに「戦後美学」の体現者と彼が評価する花田の功績…

カネフスキー

カネフスキーの『ぼくら、20世紀の子供たち』は、レンフィルム出身のカネフスキーがドストエフスキーに捧げた(同じレンフィルムのソクーロフより遥かに優れた)映画、荒戸源次郎の『人間失格』は(反石原都知事の)太宰治と(深作以来久々に)中原中也に捧…

阪本順治

阪本順治が好きだと言っている、「鈴木清順さんが好きだと言っていた花田清輝の言葉。」 「悲観は気分で、楽観は意志である」*1 *1:阪本順治著『孤立、無援』2005、ぴあ、209頁。

『蘇りの血』

豊田利晃が『蘇りの血』で、魯迅の『鋳剣』を映像化しました。傑作『空中庭園』を撮った後、末期症状のマスコミが君臨し没落へとひた走る日本という愚かな風土で、「餓鬼阿弥」のような緩慢な歩みをもって「蘇り」を果たした豊田の新作を祝福したいと思いま…

ベンヤミン『パリ―十九世紀の都市』

ベンヤミンによれば、ひとつの時代の願望のイメージは、古びて過ぎ去ったばかりのものと自分を区別したいという欲求から、はるか昔に過ぎ去ったものへと赴きます。つまり、あらゆる時代は、それが見る夢の中で、自分の次の時代がイメージとなって現れるのを…