足立正生

デリダが死ぬ前のインタビュー*1で、自分は常に生き延びるということをテーマに仕事してきた、今更のようにみんなが自分を60年代世代の最後の生き残りとして語るのは心外だみたいなことを言って、デコンストラクションとは、自分が生き延びたという痛みとともに生を絶対的に肯定することみたいな発言をしていましたが、昨日の足立正生トークで彼が自分を生き延びた者として、より良い者たちほど早く死んで自分みたいのが生き延びたという痛みとともに語っていたのは感動的でした。生き延びた者は、最後に語る者として証言することを、死者への負債のように負わされるのでしょう。また足立が、すべてを喪失した後に訪れるパレスチナ楽天性について語るのを聞いて、去年、岡崎乾二郎が、主体が完全に崩壊した後に、なおそこから始まる主体性に真の近代を見ていたのを思い出しました。

もちろんここで岡崎も足立も、生き延びという視点から生について語っています。パレスチナ難民キャンプで家族が何をするということなくただ集まってコーヒーを飲んでいる、生き延びて互いの顔を見ていられる今という瞬間の大切さについて足立は語っていたし、岡崎はロッセリーニの『ドイツ零年』で廃墟のベルリンをさまよう少年エドムントが死を目前にして突然見せる子供らしさを例に挙げながら、完全な破綻の後に幽霊的=映画的に始動する新たな主体の力学について語っていたと思います。ジェームズ・ラングレイの『ガザ回廊』で、イスラエルによる道路封鎖を避け、なお境界を越えるために海浜を流浪するパレスチナ人の群れは、モーゼに率いられたイスラエルの民の出エジプトの幽霊的回帰としか見えなかったし、インティファーダの少年たちも、巨人ゴリアテを投石で倒したとび色の肌の少年ダビデの分身的存在として、喪失の後の生き延びとしての生の強度を示しているように見えました。

*1:Jacques Derrida: Apprendre a vivre enfin, Galilee/Le Monde,2005.