2005-04-01から1ヶ月間の記事一覧

『シベリア人の世界』

土本典昭の『シベリア人の世界』(68)は、ジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』(72)を連想させます。ダンスが始まるとカメラを廻しているメカスのように、土本もシベリアの人々の歌と踊りと料理と酒に繰り返しカメラを向けます。野菜もできない…

『ミスティック・リバー』

ゴダールが言うように*1、死体に群がり死肉を奪い合う吸血鬼たちの物語であるロッセリーニの『ドイツ零年』で、ムッソリーニに因んで「閣下」と呼ばれる小児性愛者が支配する魔物の館に、エドムント少年は元担任教師によって案内されます。そこは一歩入ると…

『怪人マブゼ博士』

フリッツ・ラングのサイレントからトーキーへの移行期の作品『怪人マブゼ博士』(1932)では、ドアとともに特に窓が重要な役割を果たしています。まず、敵のアジトに忍び込んだホーフマイスターが、ドアの前で聞き耳を立て、振り返ると天窓が捉えられます。…

リトルネロ

「リトルネロとしての永遠回帰」*1 エロスとタナトスの関係をドゥルーズのように捉えるなら、fort:daのリズムとは、両者の対立・交替ではなく、脱性化されたエロスによる「偽装と置き換え」の反復のリズム、「<一>であるものの死」を促進しつつ生成・変容…

ドゥルーズ/フロイト

ドゥルーズは、フロイトのタナトス概念が、エントロピーとして計算されるような差異の消滅としての物質への回帰という物質主義に基づいていることを批判して、もうひとつの死のアスペクトを、ブランショを引用しながら、「自由な諸差異が、一個の<私>や一…

『アカルイミライ』

2003年のカンヌ映画祭で黒沢清の『アカルイミライ』が上映されて、当時はまだル・モンドの記者だったジャン=ミシェル・フロドンがすぐに取り上げて褒めていた、あの反応の早さは偉いと思いました。落ち目のカイエの評者たちは、ほとんど評価していないか、見…

せむしの小人

フロイトにとって自我が、幾世代にわたって反復された「多数の自我-存在の残滓を蔵している」「エスが特別に差異化された部分にすぎない」*1ように、ベンヤミンの分身的自我である「せむしの小人」も、太古の昔から<私>の全生涯をカメラのようにたえず見つ…

フロイト/ニーチェ

フロイトによれば、自我は身体の表面に由来する感覚が心的に投影されたものとのことです。その投影されたイメージとして、フロイトは、解剖学における「脳の小人」という概念を挙げています。「この「小人」は脳皮質の中で逆立ちしていて、かかとを上に伸ば…

マティス

「ある日、(マラルメの詩集の挿絵のために)百合を素描していました。自分がやっていることをほとんど意識せずに素描していたのです。そのとき、ピエールがドアをノックしました。私は怒鳴りました、「入ってはいけないよ、あっちへ行ってくれ、後でまたき…

ストリンドベリ/ニーチェ

ベンヤミンは、ユーゲントシュティールにおける神経系と電線の一体化に触れつつ、ストリンドベリの体内放電現象についてこんな証言を引用しています。「彼の神経は大気中の電気に対してひどく敏感だったので、雷が導線を伝わるようにその神経に伝わったそう…

モンテイロ/パゾリーニ

ストローブ=ユイレに捧げられ、セルジュ・ダネーがモンテイロに書き送ったという「ジョン・ウェインが北極でみごとに腰を使いこなす夢を見た」との言葉で始まる『J.W.の腰つき』では、冒頭、パゾリーニの『ソドムの市』を思わせる左右対称の空間として構成…

ジャン・ルノワール

ジャン・ルノワールの『マッチ売りの少女』(1928)では、玩具店のショーウィンドウを覗くカトリーヌ・エスランが、メトロノームに合せて演じたというチャップリン的動作で夢の玩具の世界に入り込んで自動人形たちと共演し、やがて登場する死神がそれら人形…

『アタラント号』

ジャン・ヴィゴ『アタラント号』 『カメラをもった男』がカメラを廻す円運動と様々な機械の円運動に溢れているように、『アタラント号』にも出航する船へ花嫁を渡す回転棒から、船の舵、手廻し洗濯機、水門を開ける回転レバーなど回転する機械類が頻出します…

ヴィゴとチャップリン

1931年、『水泳選手ジャン・タリス』を撮り上げたばかりのジャン・ヴィゴは、友人のストルクとともにニース滞在中のチャップリンに会いました。そのストルクにヴィゴはこんな手紙を書いています。「今日からニースで『街の灯』が上映される。行くつもりだ。…

エルマンノ・オルミ

最近のエルマンノ・オルミの歴史劇映画は、オリヴェイラやストローブ=ユイレの演劇=映画に近づいているような気がします。中国の女海賊(ヒロインの女優イチカワ・ジュンがよかった)を描いた『屏風の後ろで歌いながら』(2003)にしても、教皇軍の将軍ジ…

『犬猫』

井口奈己『犬猫』は、犬が猫に、猫が犬になってしまう不思議な分身感覚が素敵でした。スズのカレーライスを食べる古田と三鷹というよく似た男の反復、古田の家へ走るヨーコとスズ、アルバイト先の家を探して道に迷う二人の反復。そして、最後に、寝ているス…

チャップリン/マリオネット

チャップリンの機械的でありながら優美な動きを見ていると、クライストの『マリオネット劇について』で言われるマリオネットの優美さを思い出します。クライストはマリオネットの踊りの優美さに人間のダンサーはとても敵わないと言います。なぜなら、人間に…

ポルト/オリヴェイラ

ポルトは、ドウロ河の両岸の岩山の斜面にできた街です。ドウロ河に懸かる橋は、下で両岸を結ぶと同時に、その上方の岩山の頂き同士を結ぶという二重構造になっているため、ものすごい高さになり、上の橋から川面を見下ろすと足がすくみます。ドウロ河はここ…

リスボン/ターナー

リスボンには素晴らしいシネマテークがあります。こぢんまりとした入口を入り階段を上がるとビデオ・書籍売場があり、マックス・オフュルスの『ヨシワラ』、『ヴェルテル』、『魅せられて』など垂涎もののビデオが並んでいます。思う存分買物をして、一回り…

cinema before cinema

ゴダールが19世紀の産物と言う映画、その誕生を準備した文化・思想状況から生まれた映画的思考とは何か、その萌芽はどこまで遡れるのかを考えてみたい気がします。まだ生まれない映画の夢。それは、人間が機械と自分を接続することを覚えた時、機械に自分を…

マラルメのマネ論

ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で、19世紀に絵画が大衆によって鑑賞されるようになったことは、本来アウラの芸術である絵画の本性に反しており、むしろ、映画こそが大衆によって受容されるにふさわしい芸術であって、映画は大衆がそこにみずから…

マラルメと映画

ロメールの『マラルメ』でマラルメは、いつかルドンに自分の詩に挿絵をつけてもらいたいとは思わないか?という質問に、それもありうるかもしれないが、「どんな挿絵もないことに賛成です。一冊の本が喚び起こすほどのすべては読者の心の中で起こるはずです…

ベンヤミン 鏡

ベンヤミンはルドンについてこう言っています。 「パサージュが鏡に溢れており、そのために空間が信じられないほど拡張され、それだけに方向を定めることが困難になるということ。(…)この空間に置かれたくすんで汚れた鏡のなかで、事物はカスパー・ハウザ…

ロメール

今日届いたcinema09号のおまけDVDには、エリック・ロメールのテレビ教育番組『マラルメとの対話』、『ヴィクトル・ユゴー:「観想」』、『建築家ヴィクトル・ユゴー』の3作が収録されていました。さっそく『マラルメ』を見たけれど、とても面白い。マラルメ…

赤坂大輔 New Century New Cinema

映画批評家の赤坂大輔は、ずっと以前から、映画において「音を聴き取り認識し分析すること」の重要性を言ってきた人と思います。音を聴くことをとおして、いま体験しつつある映像の成り立ちとメカニズムを冷静に分析し、誘導的な映像と音に対する批判力を身…

マンデリシュターム/モンテイロ

ペテルブルグの詩人オシップ・マンデリシュタームの『時のざわめき』から… 「私の願いは、自分のことを語るのではなく、時代のあとを辿り、時のざわめきとその芽吹きを辿ることだ。私の記憶は、あらゆる個人的なものを憎む。(…)雑階級人にとって、記憶は無…

声/ソクーロフ

ナルシスとエコーの神話ナルシスに恋したエコーは、ナルシスの言葉を反復することしかできません。ナルシスは水に映る自分の顔を、見知らぬ他者と思って恋します。きみはだれとナルシスが聞くと、きみはだれとエコーが反復します。ぼくはナルシス、ぼくはナ…

ジョアン・セザール・モンテイロ

パリのバザール・オテル・ド・ヴィル(BHV)の裏手にある映画館ラティーナで、ジョアン・セザール・モンテイロ追悼上映があったおりには、支配人シルヴィアさんやスタッフの方から、このポルトガルの監督の生前のエピソードをいろいろ聞くことができました。…

キム・ギドク

キム・ギドクの映画は反復によって作られています。『春夏秋冬…そして春』では、湖の中央に島のように浮かぶ寺院と岸辺のほとんど水没している門の間を、僧侶と小僧が小船で幾度となく往復し、『魚と寝る女』では、湖面にやはり島のように点在する釣り小屋と…