赤坂大輔 New Century New Cinema

映画批評家の赤坂大輔は、ずっと以前から、映画において「音を聴き取り認識し分析すること」の重要性を言ってきた人と思います。音を聴くことをとおして、いま体験しつつある映像の成り立ちとメカニズムを冷静に分析し、誘導的な映像と音に対する批判力を身につけること、あるいは、「現実に見、聴こえているはずなのに、それに出会った時にはわれわれが気づくことのない運動の存在を、驚きとともに認知させてくれる」優れた映画作家たち、ジャン=クロード・ルソーモンテイロ、ネストラー、ストローブ=ユイレらが示す「観客の視聴覚への信頼」に応えること。例えばモンテイロの『白雪姫』の青画面から黒画面への移行に「沈黙から言葉への語り出しの瞬間」を聴き、ビトムスキーの『パカママ、われらが大地』に「農婦が土を踏みならし、磨く時の単調な音の繰り返しと沈黙のリズム」を聴き、ビトムスキーの『フォルクスワーゲン・コンプレックス』で「車のドア部分が大量に釣り下げられ、静かな空間を滑って行く」先に「作業場の喧騒」を遠く聴き、あるいはロシアの映画作家スヴェトラーナ・プロスクーリナが語る「対話する一人一人の人物の背景音の違いを編集で接続する瞬間の驚き」に言及することに、彼の批評における音への繊細な感受性が見てとれると思います。
赤坂がソクーロフ以降の映画の可能性について、「演劇がサイレント映画を通過しトーキーを発見した時につけられるべき音を模索しているような映画、あるいはコージンツェフやトラウベルグ、あるいはアブラム・ロームのような、1920年代に実験演劇からサイレント映画に行った人々が共産主義プロパガンダに従事せずそれを現代でも続けていたら作ったであろう映画」と言っているのを面白く読みました。トーキーとともに映画の主流を占めてゆく「自然らしさ」を装う演劇、すなわちブレッソンが「舞台のフォトグラフィックな再現」と批判する演劇ではなく、サイレントを通過することでその演劇性、様式性、人工性、儀式性が強調された反自然主義的演劇(例えばパラジャーノフのような演劇)がトーキーに出会う時、どのような音を、声をつけようとするのか。そこで演じる役者の身体は、「それ自身について語り魂を表現する身体ではなく、言葉を中継し、それに結ばれ、それを「実現する」身体」(セルジュ・ダネー)として、音あるいは声と新たな物質的関係を模索してゆかねばならないでしょう。その時、声は、内面の表出であるよりは、抑揚、リズム、音色として、身体は身振り、仕草、あるいはただそこにある物質性において提示されると思います。
赤坂がソクーロフ以降の作家として挙げている『オーストリアの草原』のアンドレイ・チェルニフと『鏡の反映』のプロスクーリナは、ともに演劇との密接な繋がりを保持しながら、その演劇的身体と声あるいは音とのずれを強く意識することから映画を映画を撮り始めているように思えましたが、さらに興味深かったのは、この二人とソクーロフタルコフスキー、ゲルマンら「芸術映画」世代とのギャップということです。プロスクーリナの映画が、表層としての顔の微細な変化の瞬間を捉えるために芸術的不完全さを受け入れるのに対して、ソクーロフには「閉ざされた虚構空間を構築しようとする意志」が一貫している、「ソクーロフも結局はこの虚構の強固な維持を目指すソ連時代の映画作家に属する人だったと言ってしまっていいのだろうか」という問いを赤坂は提出しています。この問いを考えるには、ミハイル・ロンムの『野獣たちのバラード』、『一年の九日』、『十月のレーニン』などの作品を見なおさねばならないでしょう。スターリン時代を生き延びたロンム、そのロンムのもとで「芸術家」となったタルコフスキー、ゲルマン、そのタルコフスキーに認められたソクーロフ。一方で、『野獣たちのバラード』のロンムにより近いと見えるビトムスキー、ネストラー、ストローブ=ユイレ、『セルゲイ・エイゼンシュテイン自伝』のオレーグ・コヴァロフがいます。赤坂が、「この作家の行動と透徹した視力を持つことが可能なのだろうか」と讃嘆するロンムを出発点として、現代映画史を読みなおすという新たな楽しみを教わったように思います。
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