2005-05-01から1ヶ月間の記事一覧

『オペレッタ狸御殿』

鈴木清順の『オペレッタ狸御殿』は、とても幸せな気持ちにしてくれる映画でした。木村威夫の左右対称に構成された幾何学的美術セット、本物なのにいつもながら人工的な美しさを湛えた桜、内田吐夢の『恋や恋なすな恋』を思わせる菜の花畑、パラジャーノフの…

『悲しみは空の彼方に』

ダグラス・サークの『悲しみは空の彼方に』(原題『イミテーション・オブ・ライフ』)は、イミテーションに賭ける情熱と、イミテーションであることの悲しみについての映画です。ラナ・ターナー演じる女優は、イミテーションの芸術としての演劇への情熱にお…

『ドッペルゲンガー』

分身とは近代的自我の抱える病でしょう。自分の中に善い子と悪い子、ジギルとハイドン、真の自分と偽の自分がいるという分裂に悩む病。しかし、実際にはそこに分裂などなく、自我は善と悪、真と偽の間で適当に妥協しながら生きてゆきます。どうしたらこの凡…

アジアの友人の話

アジアの友人がこんな話をしてくれました。「私たちは、中国、台湾、韓国、北朝鮮などで、EUのアジア版AUをつくろうと考えています。しかし、日本の政治家がいまだに「大東亜共栄圏」の夢を見ているのであれば、日本はそこから排除されざるをえないでし…

佐藤真の『中東レポート』

国内に反アジア・ナショナリズムの波を起こして、それを憲法改正、9条削除、徴兵制導入へ結びつけようとする政府・自民党によるマスコミ操作がいよいよあからさまになっていく今、せめてTBSあたりが佐藤真の『中東レポート アラブの人々から見た自衛隊イ…

身体の映画

エイゼンシュテインの誕生から死までの「自伝」という形式を取りながら、彼のフィルムのうちにロシア史や社会主義建設ではなく、自然のリズムの表現としてのダンスの動きと線を見出そうとするオレーグ・コヴァロフの『エイゼンシュテイン自伝』は、やはり詩…

『サマリア』

キム・ギドクの『サマリア』では、最初の「バスミルダ」の章でずいぶん多くの機械が出てきます。少女たちが、客との通信に使うパソコン、携帯。インドの菩薩的娼婦にちなんで自分をバスミルダと呼ばせる少女が客に取るのは、自動ドアのセンサーを扱うセール…

羽田澄子

羽田澄子さんは、大連生まれの旅順育ち。グルジアの画家ピロスマニについてのゲオルギー・シェンゲラーヤの伝記映画を見た羽田さんが、ピロスマニが夢見ていた木の家について語っているのを読んで(『映画と私』、晶文社、2003)、子供時代に育まれた大陸的…

下北沢

「現代思想」5月号が、失われたフォンタイーニャスについて語るペドロ・コスタのインタビューと都市計画で失われようとする下北沢を守る会“Save the 下北沢”の主張を並べているのを面白く読みました。高級住宅地に囲まれた下北沢を日本のフォンタイーニャス…

『映画史』3a

ゴダールの『映画史』3aで、映画は、ロッキングチェアーで揺れる老人のように、美女と野獣、民衆と国家、真と偽(言い間違い)、物語と反物語、無と一切、ドイツとフランスという2つの極の間を揺れ動いています。これらの間を揺れながら映画に可能な「何か」…

ダグラス・サーク

ダグラス・サークの素晴らしさはどこにあるのでしょう?破滅へ向かって疾走するスポーツカー、水上艇、飛行機などの圧倒的なスピード感。マックス・オフュルスのように優美なダンス・シーン。芝居の書割のような背景と至るところ眼にとまる絵画の装飾性。衣…

アメリカの東欧

アンディ・ウォーホールはもともとはウクライナあたりの出身らしいです。リトアニア出身のメカスと仲が良かったのもその辺の事情があるのかもしれません。フルクサス運動は東欧・ドイツ出身者によって生み出されました。 アメリカのジャーナリズムは、例えば…

『セルゲイ・エイゼンシュテイン自伝』

オレーグ・コヴァロフの『セルゲイ・エイゼンシュテイン自伝』は、エイゼンシュテインのフィルムのモンタージュをとおして、ダンス映画を作ろうという試みです。しかし、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』などの機械を主役としたバレー・メカニックと…

『ママと娼婦』

ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』では、電話から聞こえる声、レコードの歌声、ラジオの伝道番組の声など、機械をとおして聞こえてくる声がまずあり、登場人物たちはこれらの機械に接続された自動人形として存在しているかのようです。この映画における…

唐十郎の中原論

唐十郎は中原中也についてこう言っています。 「彼のあの物腰をつくったものこそ、決定的に、彼を見つめていたものだ。彼を見つめていたあの悲しみのオブジェをさえ見つめていたものがそれだ。それは、街である。」*1 「私たちに見えるものは、詩の中に現れ…

土本典昭(2)

土本典昭が主義とする「19世紀のコミュニズムの思想」*1とは何でしょうか。『みなまた日記』(作成1996・改訂2004)は、水俣の民衆の歌と踊りと祭りの記録のようでしたが、土本はこの点で60年代から一貫しています。『留学生チュア スイリン』(65)に描かれ…

『怪人マブゼ博士』(60)

32年の『怪人マブゼ博士』は、マブゼの閉塞性の呪縛が窓によって打ち破られる物語でしたが、60年にフリッツ・ラング自身がリメイクした『怪人マブゼ博士』においては、テレビがあらゆる空間に浸透して事件を見世物化し、密室というものが存在しえなくなった…

『珈琲時光』

侯孝賢の『珈琲時光』で、一青窈がほとんど横顔から撮られているのは、胎児の横顔として捉えられているからでしょう。一青自身が一人の胎児であり、その一青の中にも胎児がいて、外界のもの音に耳を澄ましている。踏み切りの警鐘の音、車のドアを閉める音、…

『映画史』

ゴダールの『映画史』でもっとも感動的な4bの盲目の人々のダンスシーンで引用されるベンヤミンのテクスト。2bでもウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』の映像とともに引用されていました。チャップリンとウェルズで始り、チャップリンとウェルズで…

中原中也(2)

中原中也は、自分が無の眼差しに見つめられているという意識を詩の出発点としていた人です。「草の根の匂ひが静かに鼻にくる、/畑の土がいっしょに私を見てゐる。」(「黄昏」)、「野原に突出た山ノ端の松が、私を看守つてゐるだろう。/それはあつさりして…

中原中也

鷲巣繁雄の『呪法と変容』から中原中也について…(続き)。 「ひとは彼の詩が「思い出」によって充たされている事に気づくであろう。しかし、この「思い出」は、我々が通常言う、記憶の彼方からやって来る過去の風景が単なる慰め手として登場するのとは異な…

鷲巣繁男

シベリアのことを考えながら、忘れられたギリシャ正教詩人、鷲巣繁男の本をめくっていたら、中原中也についてこんなことが言われていました。 「彼の詩は、丁度、昼寝から覚めた者がその統覚をとり戻す迄の、あの不思議な空間にゆさぶられ、次々に記憶の中に…