『悲しみは空の彼方に』

ダグラス・サークの『悲しみは空の彼方に』(原題『イミテーション・オブ・ライフ』)は、イミテーションに賭ける情熱と、イミテーションであることの悲しみについての映画です。ラナ・ターナー演じる女優は、イミテーションの芸術としての演劇への情熱において、社会的には成功しながらも、愛する男と結ばれず、娘に接する時間も十分にもてないという虚しさにたえず伴われています。一方、彼女のメイド、アニーの娘サラ・ジェーンは、黒人差別の社会で黒人の母親を避け、白人のイミテーションになろうとします。しかし、彼女のイミテーションは繰り返し見破られ、そのたびに彼女は母を呪いながら、白人ダンサーとしてクラブを渡り歩きます。自分の死期を悟ったアニーが、娘にひと目会おうとクラブを訪ねる時、娘のイミテーションが見破られないように、母が乳母を演じるシーンは、イミテーションをイミテーションによって支えようとする二重の悲しみゆえに感動的です。そのイミテーションがサラ・ジェーン自身によって破られるのは、リアルな存在としての母がすでに失われた葬儀という華麗な演劇空間においてです。「人はリアルなものに、届いたり、触れたりすることはできない。ただその反射を眼にするにすぎない。幸福そのものを掴もうとしても、指はただガラスに当たるだけだ。」*1 というサークの認識が、そこには表れています。『心のともしび』で盲目のジェーン・ワイマンに偽名を名のりイミテーションとしての恋愛を演じるロック・ハドソンは、真実を告げると同時に彼女を失います。『風とともに散る』のローレン・バコールロック・ハドソンも、互いの想いを隠して、妻あるいは親友という役を演じ、イミテーションとしての人生を生きてゆきます。サークの作品におけるイミテーション、作り物性、人工性、演劇性のテーマは、イミテーションの芸術としての映画そのものへの彼の洞察から生じているのでしょう。

*1:"Sirk on Sirk conversations with Jon Halliday", Faber and Faber, London, 1997, p.151