『ドッペルゲンガー』

分身とは近代的自我の抱える病でしょう。自分の中に善い子と悪い子、ジギルとハイドン、真の自分と偽の自分がいるという分裂に悩む病。しかし、実際にはそこに分裂などなく、自我は善と悪、真と偽の間で適当に妥協しながら生きてゆきます。どうしたらこの凡庸な自我から逃れることができるのか、本体と分身という見せかけの二元論の外へ出ることができるのか。黒沢清の『ドッペルゲンガー』は、ラングの『メトロポリス』を意識しながら、このロマン主義ドッペルゲンガー・モチーフそのものを否定しようとする作品です。自分の本当の意志を実現した分身に出会った由佳の弟は、絶望して死に、分身に取って代わられます。同様の分身につきまとわれる早崎は、分身を嫌悪しつつも利用して、人間の意志を感受して動く分身ロボットの研究に没頭します。ロボットが完成した時、自身の達成感のために作ったと語る本体に、では金と名誉と権力は自分がもらうと言う分身は、本体とそのパートナーである霧島によって殺害されます。しかし、分身はもともと本体のうちにあったのですから、それによって消えるはずはなく、霧島という金と名誉と権力への欲望を体現する第二の分身として本体の前に現れます。その第二の分身を川で突き落として殺害する時、本体はいつのまにかうちに潜む分身と見分けがつかなくなり、分身の口笛を吹き始めます。その本体=分身が、生き延びてロボットを強奪する霧島によって轢き殺されてはじめて、本体は、「過去」も「復讐も思い出」ももたない第三の自分=ゾンビとして蘇り、分身から解放されます。分身=霧島はホテルの廃墟での銃撃戦の末ノックアウトされ、分身ロボットはぼろぼろの姿で踊りながら崖から落ちてゆきます。本体と分身という閉塞的な二元論から逃れ、「過去」も「復讐も思い出」ももたない自由を獲得すること。このゾンビ的な主体こそ、ニーチェの言う「超人」にほかならないでしょう。