2005-01-01から1年間の記事一覧

バルトの写真論

「写真」は、一方でステレオタイプ化したイメージを生産しながら、もう一方でバルトが「写真のエクスタシー」と呼ぶ「狂気」を秘めていることにおいて両義的です。「>が、しかし、他方においては、>」という「知覚のレベルでは虚偽であるが、時間のレベルで…

いばら姫

「いばら姫がいばらの垣のなかで眠っている。そして、これこれしかじかの年月が流れて、いばら姫は目を覚ます。 けれども、ひとりの幸運な王子のキスによって目を覚ますのではない。 料理番がいばら姫を起こした―つまり、料理番が下働きの小僧にびんたをくれ…

ロラン・バルト

ロラン・バルトは写真論『明るい部屋』で、フェリーニの『カサノヴァ』を見た折の経験をこう語っています。「私は気が滅入っていて、映画は退屈だった。しかしカサノヴァが若い自動人形の女と踊り始めると、突然、不思議な麻薬の効果が現れ始めたかのように…

『去年マリエンバートで』

『去年マリエンバートで』では、凝固した過去のイメージが、石像として、白黒写真として、映画として提示されますが、それらは固有性を剥奪され、去年と今年という合わせ鏡によって増幅され、あらゆる場所、あらゆる名前でありうる、いくらでも複製され反復…

『アイカ・カタバ』

2003年にリスボンでこんな上映会をしていたのですね。ちょうどモンテイロが亡くなる頃に(2003.2.3.)。シュレーターは気にはなっているのですが、なかなか観られなくて…『ナポリ王国』はぜひ観たいのですが。『アイカ・カタパ』は、路上に人が倒れているシー…

バロック演劇

後年のファスビンダーを成否は別にしてバロック的と呼ぶことができるかもしれません。失敗すれば『リリー・マルレーン』のようなマニエリズムに堕するけれど、うまくいけば『13回の新月のある年に』のようなシェークスピア悲劇が出来あがる。ゴダールがどう…

『出稼ぎ野郎』

ncncineさま、ご意見ありがとうございます。ファスビンダーを評価する声の多くは反権力、同性愛、ジェンダーなど映画以外のところから聞こえてくるようで、このような方面からの「手放しの」ファスビンダー讃美が、この作家を正当に評価することをますます難…

ファロッキvsファスビンダー

ファロッキは、ファスビンダーもヴェンダースも初期の長廻しを放棄して、ショット=切り返しショットという体制的イデオロギーへ回帰することで「革命を裏切った」と批判します。*1ファロッキが評価するのは、長廻しだけで撮られた『出稼ぎ野郎』、とくに固…

ラング、ブレヒト、ウェルズ

ドゥルーズは裁くことの不可能性を作品化した作家として、ラング、ブレヒト、ウェルズを考察しています。それによれば、ラングにおいてはもはや真実はなく、ただ見かけだけがある。見かけはそれが嘘であるゆえに別の見かけにとって替わられる。そこにはつね…

ドイツ映画

ルドルフ・トーメがアンゲロプロスの『永遠と一日』に激怒して撮ったという『Paradiso』には、ファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』のイルム・ヘルマンや、60年代トーメの『紅い太陽』で近づく男たちを殺してゆく美人テロリストのコミューン…

『ライフライン』

ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』で、映画は人生のあらゆる場面に入り込みそれを見つめるものとして捉えられていましたが、人生とともに労働を、とくに手によってなされる仕事を記録するものとしてもありました。何かを塗る手、洗う手、研ぐ手、電話…

『チャーリーとチョコレート工場』

ティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』では、選ばれた5人の子供たちが工場の門を入り、工場の扉が開くと、自動人形たちが彼らを迎え歌い踊り始めます。しかし、よく見ると人形の顔には老朽化による染みがついており、やがて点火される花火によ…

『ブリスフリー・ユアーズ』

アピチャッポン・ウィーラセタクンの『ブリスフリー・ユアーズ』も工場の門をめぐる映画です。ビルマ人ミンは不法滞在で健康診断書がないため、恋人ルーンが勤める工場をくびになって敷地内に入ることができず、門衛所のビルマ人労働者と雑談しながらルーン…

『人間の声』

ロッセリーニの『人間の声』では、ほとんどフィックスで捉えられるマニャーニの顔=身体は、繰り返し彼女が覗き込む鏡によってその視覚性をさらに強調され、一方、2回目の電話以降受話器から漏れてくる相手の男の声らしき機械音(しばしば聴き取りにくいと言…

『ゴーストダンス』

ケン・マクマレンの『ゴーストダンス』の中で、デリダはパスカル・オジエと見つめ合い、監督の演出に従って次のような対話をしたそうです。「では、あなたはこれを信じますか、亡霊を信じますか」というデリダの問いに、彼女は短く、「ええ、今は、そうね」…

幽霊=法=王

スクリーンが同時にカメラであること。ベンヤミンが語るせむしの小人のように、いつもこちらを見つめているのに、こちらからはその眼差しを捉えられない幽霊の視線。スクリーン=カメラと観客の非対称性。モンテイロの眼、中原中也を見つめる眼。デリダによ…

『ニース、ジャン・ヴィゴについて』

ジャン・ヴィゴの『ニースについて』の翌年に『ドウロ河』を撮ったオリヴェイラの短編『ニース、ジャン・ヴィゴについて』は、やはり映画の幼年時代についての作品です。現在のニースのイギリス海岸とヴィゴの撮ったイギリス海岸、子供たちの遊戯広場でピエ…

工場の門

ファロッキの『工場を立ち去る労働者』(95)は、リュミエールの『工場の出口』に始まり、工場を立ち去る労働者の姿がいかに繰り返し映画史の中で、あるいはまた記録映像として撮られてきたかを示しながら、それは子供がはじめて言えた言葉を100年間繰り返し、…

映画=労働

ファロッキが出演してるストローブ=ユイレの『階級関係』のメイキングをファロッキ自身が撮ってるけど、フィトゥシの撮った『シチリア』のメイキングとほぼ同じ。ストローブ=ユイレの手法は昔から頑固な農民のように変わらないということかな。映画=労働…

ミシシッピーの洪水

ベンヤミンは1927年のミシシッピーの洪水について報告しています。この時は、ニューオーリンズの街を水没から救うために、河の上流のプランテーション農家が厖大な時間と労力をかけて築いた堤防を政府が爆破し、水を平地に流したそうです。爆破に反対する貧…

『ざくろの色』

パラジャーノフの『ざくろの色』で繰り返し現れる球体の円運動と左右の振り子運動は、機織りで回転する紡錘と布を織る機の動きと思えます。つまり、この映画は、身体による三次元の演劇を、真正面からのショットによって、布に染められた模様という(マチス…

『影の天使』

ダニエル・リーベスキンドが設計した「脱構築」建築「ベルリン・ユダヤ博物館」には、ルビッチ監督・主演のサイレント短編映画とともに、ファスビンダーの芝居『ゴミ、街、そして死』が反ユダヤ主義的だと抗議するフランクフルトの人々とそれにインタビュー…

ファスビンダー

ドイツのマイケル・カーチスになろうとして、年に7本も映画を撮っていたファスビンダー。彼自身が言うように、映画を撮らずにはいられない病気だったのでしょう。『秋のドイツ』では、バーダー・マインホーフ・グループのテロリスト3人が刑務所で死んだ事件…

「剥製―眼球」

カメラが同時にスクリーンであること、「あなたが何を考えてるか、わかるわよ」と言うマネの女性の眼差し。解体社の清水信臣は、それを土方巽の「剥製―眼球」に託して語っています。 「この「眼球」は、すなわち「剥製―眼球」は、すでにいかなる事物も意志的…

ボン・マルシェ日記

中原中也が1937年2月に精神病院を「無理に」退院して、鎌倉の寿福寺境内に引っ越してから10月に死ぬまでの間つけていた日記を「ボン・マルシェ日記」と言います。パリの百貨店ボン・マルシェ発行のスケジュール帖で、偶数頁の上欄と奇数頁の下欄にボン・マル…

『上海の約束』

ヴィクトル・エリセが子供の頃、映画館にもぐりこんでスタンバーグ監督の「18禁」映画『上海ジェスチャー』のジーン・ティアニーの魅力に圧倒された経験をもとに、フアン・マルセーの小説『上海の呪縛』を映画化しようとしながら実現しなかった『上海の約束…

カマキリ

「カイヨワはその論文『カマキリ』において、カマキリでとくに目につく反射作用の自動性を指摘している(そこでは頭をはねられても、生のための機能はほとんど失われない)。カイヨワはこの反射作用を、その不幸な意味のゆえに、神話に見られる呪われた自動…

ファウンド・フッテージ映画

機械が人間を代替し、人間は機械を遠隔操作することで、出来事を直接体験することがなくなり、出来事が情報の送受信へと解体されていくサイバー時代。例えばマンスキーが言うような世界的インフォメーション・バンクからイメージを引き出し組み合わせて作る…

マキノプロ女優・長谷川泰子

岩佐寿弥『眠れ蜜』。夜の街角に立つ泰子、ショーウィンドウのマリオネット。突然歌いだすシャンソンがよかった。「地球が二つに割れればいい、/そして片方は洋行すればいい、/すれば私はもう片方に腰掛けて/青空をばかり―」 観念的無限状態(空)と何も考え…

『B‐52』

ビトムスキーの『B‐52』をめぐるファロッキとビトムスキーの対話*1(抄訳)「この映画では、人々が飛行機を手入れし、修理し、油を差すのが見られます。人々が忙しく動き回るのは、映画の中で―喜ばしいことに―起こらないこと、すなわち出撃のためです。(…)…