ラング、ブレヒト、ウェルズ

ドゥルーズは裁くことの不可能性を作品化した作家として、ラング、ブレヒト、ウェルズを考察しています。それによれば、ラングにおいてはもはや真実はなく、ただ見かけだけがある。見かけはそれが嘘であるゆえに別の見かけにとって替わられる。そこにはつねに相対的な見かけの交替があるばかりである。ブレヒトにおいても絶対的な裁きは不可能であるが、ラングの場合と異なり、それは矛盾に充ちた現実に基づいている。例えば『死刑執行人もまた死す』のヒロインが人質となった父を救うためにパルチザンに自首を求めながら、一方で自分をかばう野菜売りの老婆の沈黙を受け入れるという矛盾がブレヒト的であるのに対して、パルチザンがヒロインとの情事に見せかけようと頬につけたキスマークが完璧すぎたために見破られてしまうように、あるいはゲシュタポ密偵であるチャカがドイツ語のジョークに反応して正体を見破られるように、ラングにおいては見かけ自身が嘘であることを明かしてしまう。チャカは偽の証人たちによって嘘のパルチザンに見せかけられ処刑される。ゲシュタポはチャカが真犯人であるはずはないと知りつつ、面子のためにその見かけを受け入れる。このような見かけの連鎖によってラングの(とくにアメリカ時代の)作品は構成されている。これに対してウェルズにおいては裁くというシステムそのものが完全に不可能となる。そこでは真実とともに見かけの世界もまた廃棄されている。残っているのは身体によって表される諸力のぶつかり合いであり、裏切りの連鎖、贋作者の連鎖としての生成変化である。*1
これとの関連でダグラス・サークにおけるイミテーション、ジャック・ターナーにおける見かけ、分身について考えることもできるでしょう。

*1:Gille Deleuze, L’image-temps, Paris 1985, p.180-182.