ファロッキvsファスビンダー

ファロッキは、ファスビンダーヴェンダースも初期の長廻しを放棄して、ショット=切り返しショットという体制的イデオロギーへ回帰することで「革命を裏切った」と批判します。*1ファロッキが評価するのは、長廻しだけで撮られた『出稼ぎ野郎』、とくに固定ショットの合間に6回ピアノ演奏とともに挿入されるトラヴェリングの美しさ。もう一つは、『何故R氏は発作的に人を殺したか?』、そこでは「秩序への妄執が生を統御している。真四角に区画された土地の上で営まれる生は、過度に規制された、どこでも同じものでしかありえない―もちろんカメラは、思考され、夢見られるイメージのすべてを同じ真四角なフレームの中に捉えている。この偽りの秩序に対して映画は、手持ちカメラの長廻しでさまよい動き、ここには何の目的もないのだよとうそぶくことで反逆する」。ところが、『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』になると、ファスビンダーがベロニカとナチス時代のウーファ作品を観ている「最初のシーンからすでに耐えられなかった」。ここでファロッキが苛立っているのは、何よりもファスビンダーが照明や美術セットなど「映画の効果マシーン」によって作り出す懐古的な美に対してのようです。例えば冒頭、ベロニカと新聞記者が雨の森を歩き突然現れる路面電車に乗り、最後部から外を眺めるベロニカの前のガラス窓を大量の雨水が流れ落ちる「誇張」的なシーンは、「生よりも何か大きなものに対する勇気があった」ウーファ時代を暗示しており、ファスビンダーはそうした「映画の効果マシーン」に「大きな楽しみ」を見出しているのだが、「物語装置がこれほどまでに舞台を支配してしまうと、それはこの時代へと完全に移し替えられてしまう。こうしてファスビンダーは、たいした歴史化なしに過去への跳躍を成功させるのだ」とファロッキは不快感を示しています。
ファスビンダーを弁護するなら、ここで物語装置としての路面電車が「誇張」的に用いられているのは、確かにウーファ時代の映画というかハリウッドへ渡ったムルナウの『サンライズ』の路面電車シーンが暗示されているからでしょう。それも『サンライズ』のカップルが最前部に乗ってゆるやかにカーブする車窓から景色を眺めるのとは対照的に、ベロニカたちは最後部に乗り、過去の方角を眺めるけれど雨のせいで何も見えない、つまり過去の栄光という夢の中に閉じこもっているベロニカという女優の存在を示すための演出としてそれが用いられているからにほかなりません。また、映画館でナチス時代の出演作を観るシーンは、『サンライズ』からの連想で『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンジョゼフ・コットンが並んで『女王ケリー』を観るシーンをリメイクしたものでしょう。ファロッキが言うように麻薬取引は映画同様、夢にしか生きられないベロニカや老ユダヤ人に夢を売る商売です。それによって両者はともに戦後ドイツ社会によって搾取されています。彼らが住む夢の世界は表現主義的な光と闇によって構成されています。これに対して麻薬を扱う女医の世界は影のない白一色の均質な光に照らされています。この白一色の世界をファロッキは、「ドイツ映画産業に対する侮蔑」と解釈していますが、むしろそれは戦後ドイツ社会そのもののメタファー、『出稼ぎ野郎』についてファロッキ自身が書いている「過度に規制された、どこでも同じものでしかありえない」生を暗示するものでしょう。ナチス時代には少なくともまだ光と影があった、しかし今は影もなくすべてが均質な光に照らされている時代だというのが、ファスビンダーの現代批判です。しかし、それでもなおファスビンダーの映画は懐古的な美が多すぎるという批判は可能かもしれません。ベロニカはガラスケースに入れられ蝋燭の光で照らされた蝋人形のような存在です。ラストのお別れパーティーの美しさは、魂の抜けた夢遊病者、すでに死体としてある者が幽霊のように歌ってみせるところから生じています。それを懐古的な美と見て「革命の裏切り」と考えることもできるかもしれませんが、それは喪の芸術としての映画ならではの美なのかもしれません。ファスビンダーは駄作も多いけれど、やはりドイツ映画の最も魅力的な部分をウーファ時代から受け継いでいるように思います。