『出稼ぎ野郎』

ncncineさま、ご意見ありがとうございます。ファスビンダーを評価する声の多くは反権力、同性愛、ジェンダーなど映画以外のところから聞こえてくるようで、このような方面からの「手放しの」ファスビンダー讃美が、この作家を正当に評価することをますます難しくしているのかもしれません。『出稼ぎ野郎』はテーマ的には『不安と魂』で繰り返される外国人労働者に対するドイツ人の偏狭さを扱っていますが、この点では失敗作というかどうでもいい作品です。しかし、この作品がファスビンダー評価の上で重要なのは、やはりストローブ=ユイレに影響された長廻しの固定ショットとファロッキが絶賛するトラヴェリングのおかげです。団地の前庭にたむろする人形のようにほとんど身動きしない人々の長廻しショット、彼らが同じようにテーブルを囲むショットではやがてトランプゲームが始り、機械的なカードのやり取りが登場人物同士の交換可能性を暗示し、それはストーリー中だけでなく、腕を組んで歩く二人の人物を真正面から捉えたトラヴェリングにおける7回の人物交換として反復されます。ファロッキはこれ以降ファスビンダーが長廻しを放棄してしまったと言いますが、『出稼ぎ野郎』のこれらのシーンは、『ぺトラ・フォン・カントの苦い涙』で部屋に飾られたマネキンの傍らでほとんど動きのない演技をするイルム・ヘルマン、『聖なるパンスケに注意』で夜のホテルのロビーに集う人々を捉えた長廻し、そこで互いの掌を叩いて反射神経を競うゲームに興じる登場人物同士の交換、『ヴェロニカ』のお別れパーティーで蝋人形のように配置された人々など、ファスビンダー映画の最も美しい部分を形成しています。ファスビンダー評価はこの部分にかかっており、そこにダグラス・サークやウルマーの後継者としての彼の資質を見ることはできないでしょうか?ファロッキの評と同時に掲載されたディートリッヒ・ディーデリヒゼンのファスビンダー*1(もともとTrafic誌Nr.55, Automne 2005に同時に掲載されたもの)でディーデリヒゼンは、ファスビンダー作品の特徴を、あらゆる行動が不可能になった状況下で最後に残った自己規定の可能性としてのポーズという概念で表しています。それによれば、群れをなした人々がそれぞれにポーズを取ったまま静止している、そこに何者かが闖入し、ポーズを取った者の一人を打ちのめし卑しめる。卑しめられた者は別の群れへ移って行き、そこでまた同じことが反復される。これはかなり的確にファスビンダーの特徴を捉えている評と思います。もしかしたらはじめからファロッキと役割分担して書いたのではないかという気までしてくるのですが。