バルトの写真論

「写真」は、一方でステレオタイプ化したイメージを生産しながら、もう一方でバルトが「写真のエクスタシー」と呼ぶ「狂気」を秘めていることにおいて両義的です。「<<それはそこにない>>が、しかし、他方においては、<<それは確かにそこにあった>>」という「知覚のレベルでは虚偽であるが、時間のレベルでは真実である(…)穏やかな、慎ましい、分裂した幻覚」、虚偽と真実の間の「ある奇妙な媒体」として「写真」は、事物の過去を現在において「無媒介的(直接的)」に確信させる「狂気の映像」であり、それを見る者は「そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像の中へ入って行って、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているもの」を、自動人形と踊るカサノヴァのように抱きしめずにはいられないのだとバルトは言います。「ある何かが、小さな穴の前でポーズを取り、そこに永久にとどまっている」*1、<<それはそこにない>>虚偽であるにも関わらず、見る者を暴力的に捉える真実として、「そこに写っているものの非現実性を飛び越え」、過去と現在の驚くべき出会いにおいて確証される。すなわち、「死体が死体として生きている、ということを写真が証明する」*2こと、すでに死んでしまったものがゾンビとして、自動人形としていま・ここに生きていることを示すことに、「写真」の狂気は存しています。

*1:『明るい部屋』、96頁。

*2:同、96-97頁