清順『陽炎座』

 清順の『陽炎座』のラスト、表と裏、生と死、夢と現実の境界上で、幽霊たちによって演じられる操り人形的舞台。そこに出現する幽霊とは、また顔のない子供たちであること。≪Es spukt.≫(「それが亡霊する」、「それが出幻する」)の自動機械性、デリダによれば、その「非人称的な再来性は、自動反復にみずからの根拠律を見いだすのと同じく、自動反復を生み出す」*1。子供と幽霊の自動反復。
 「わらべ唄には原東北も、原風景もなくただノッペラボーの子供だけが対象化されて存在している」、「わらべ唄というのはいつも顔のない子がうたっていた。それは藁人形でしかなかった。だからいくらでも反復可能だった」、「一人二人三目の子/取って拾って糞くらえ/と唄って哄笑した子供が振り向くと顔がない。しかしその子供は団地アパートの四〇二号の奥さんだったり、かくれんぼの時に隠れたままうまいこと正体をくらまして、ポーラ化粧品のセールスマンになった男だったりする」、「僕はわらべ唄はマルクスの<ブルリュメールの十八日>で扱われている歴史上の大事件と同じように、二度あらわれるという意見です。だが、わらべ唄は一度目が悲劇で、二度目が喜劇ということはない。うたわれるたびにいつでも喜劇なのだと思います」*2

*1:デリダ、『マルクスの亡霊たち』、増田一夫訳、2007、藤原書店、354頁

*2:寺山修二、「顔なしわらべ唄」、『きみ泣くや、母となりても』、1993、立風書房、77-93頁