ブレヒトとバロック

ブレヒトは叙事演劇の話をする。児童劇で演出の欠陥が、異化効果を生み出しながら、叙事的な特徴を舞台に与えることなど。旅回りの一座でも似たようなことがおこりうるという。ぼくはジュネーブで見た『ル・シッド』を思い出す。その舞台で国王の頭に冠がかしいでのっているのを目にしたとき、ぼくの心に閃くものがあって、九年後にその考えを『ドイツ悲劇の根源』に定着したのだった。」*1
ブレヒトの叙事演劇にしろ、ベンヤミンバロック演劇にしろ、共通するのは演劇における「自然らしさ」を破綻させ、不自然さ=お芝居らしさをあえて強調し、演じられる事柄の演劇性とそれが置かれている状況を観客に意識させることです。このような異化効果は、叙事演劇においては観衆の感情移入を妨げる「ソングや字幕や特定の身振り」による頻繁な劇の中断によって、バロック演劇においては、死体のように硬直した身体とその意味を解き明かせぬまま空転を続ける長広舌との齟齬をとおして得られます。オリヴェイラの『ノン、あるいは支配の虚しい栄光』は、人間の支配欲に神のノン=死の絶対性を対置するというテーマ面はもとより、静止状態の身体と語りの持続が生み出す緊張関係においてもバロック的と見え、一方、『家路』はそのあっけなさにおいてブレヒトの叙事演劇により近いと見えますが、基本的には静と動どちらにより重点を置くかだけの相違で、バロック的なものとブレヒト的なものはオリヴェイラにおいて入り混じり、両者の区別は意味をもたないと言えるでしょう。

*1:ブレヒトとの対話」、川村二郎訳、ヴァルター・ベンヤミン著作集9、晶文社、210‐211頁。