人生の文字化

「人生が書かれた文字に変容しているのを感じる」とはどういうことなのか、ベンヤミンは『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』で次のように言います。
「早いうちから私は、言葉の中に自分を包み込んで―言葉(ヴォルテ)は本当は雲(ヴォルケ)だった―雲隠れすることを学んだ。類似を認識するという才能は、実際、似たものになるように、また似た振舞いをとるように強いた太古の力の、その痕跡にほかならない。私にそのように強いたのは言葉だった。それも、私を模範的な子供らに似させようとする言葉ではなく、住居や家具や衣服に似させるような言葉だった。私自身は、身のまわりに置かれたあれやこれやに似させられて、すっかり歪められていた。貝殻に棲むやどかりさながら、私は、いまでは主のいなくなった貝殻のように空ろな姿を私の前に晒している、十九世紀に棲まっていたのである。この貝殻を耳に押し当ててみる。何が聞こえてくるだろうか?(…)私の耳に聞こえてくるのは、バケツから鉄のストーブの中に落ちる無煙炭の、ザアッという短い音であり、ガスマントルの焔が点火されるときの、くぐもったボッという音、また、通りを馬車が行き過ぎるとき、真鍮の車輪の上でランプの笠がたてる、カタカタという音なのである。その他にも、鍵籠のガチャガチャと鳴る音、表階段と裏階段の、それぞれの呼び鈴の音など。そして、最後に、小さな童謡のひと節も。」*1
「言葉の中に自分を包み込んで(…)雲隠れすること」とは、住居や家具や衣服など「身のまわりに置かれたあれやこれや」に似たものとなり、文字=記号として捉えられたそれら事物の中に自分自身を紛れ込ませることです。十九世紀という「主のいなくなった貝殻」のような空ろな風景の中に、そこにある事物と類似した文字=記号と化してみずからを溶け込ませ、耳を澄ますとき、聞こえてくるのは、われわれが無意識のうちに聞いている「周辺聴取的な」音にほかなりません。すなわち、「人生が書かれた文字に変容しているのを感じる」とは、「私」を主人公とした物語=自伝として人生を見るのではなく、「私」を含めた状況全体を、文字=記号の集積として捉え、そのざわめきに耳を澄ます非人称的な想起の仕方と言えるでしょう。

*1:ベンヤミン・コレクション③』、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、560-562頁。