花田清輝と安吾――『ものみな映画で終わる』

花田清輝チャップリンの『モダン・タイムス』とルネ・クレールの『自由を我等に』のラスト・シーンを比較しながら、「どちらの作品においても、主人公たちの前に、たんたんたる道がひらけている点は同じである。しかし、前者においては、例によって例のごとく、主人公とかれの恋人ととが、われわれに背をむけて、さびしげに立去っていくのに反し、後者においては、主人公とかれの友だちとが嬉々としてたわむれながら、どんどんわれわれにむかって近づいてくる。一方には悲愁のいろがただよい、他方には快活な雰囲気がみなぎっている。しかし、決して外観にあざむかれてはならないのだ。チャップリンの主人公たちは、かれらを閉めだした社会にたいしてふたたび挑戦しようと再出発しているのだが、――しかし、クレールの作品の主人公たちは、社会から逃避して、かれらの「自由」をたのしんでいるにすぎないのである。」(『ものみな映画で終わる』、清流出版、2007、65‐66頁)と言い、そこにカミュの『シジフォスの神話』を重ねてチャップリンにおける再出発の思想を論じています。花田によれば、「シジフォスの真の性格は、かれの失敗よりも、かれの再出発に――失敗にもかかわらず、敢えてかれのくりかえす再出発のほうに求められねばならない」、「そこに、チャップリン映画のラスト・シーンの意味がある」(67頁)。これに続けて花田は、「わたしがシジフォスに関心をもつのはこの下降、この休止のあいだである。」から始まる『シジフォスの神話』の一節を引用するのですが、ここで「休止」という言葉を引く花田の脳裏には、坂口安吾の「道化は純粋な休み時間だ」という言葉が同時に響いていたことでしょう。安吾が『茶番に寄せて』で、道化とは合理が不合理と戦って敗れ、完全に不合理を肯定した「純粋な休み時間」、昨日まで貯めこんだ百万円を惜しげもなくバラ撒いて無一文になるときであると論じていることは以前(2008/2/29)書きましたが、花田にとってはこの道化の代表がチャップリンにほかなりません。花田もまた安吾に倣い、ファルスによる芸術の復興を目指していましたが、その際、チャップリンは、「サチールの精神だけが、時を得顔にのさばりかえっている」(56頁)時代(安吾もまた『茶番に寄せて』で「諷刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである」と言っています。)において、ファルスの精神を最高度に血肉化した者として評価されます。
「ファルスのおかしさは、ベルグソンのいわゆる「生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの」のおかげであって、要するに、登場人物のすべてが、赤玉や白玉に変形し、それらの玉たちが、きわめてリズミカルに、ころがったり、ぶつかったり、はねかえったりする点に特色があるのだ。サドゥールなどは、徹底的に人間を「物」としてとらえているその種のチャップリンの初期の作品に、作者のサディズムをみいだしているほどである。そういったチャップリンのファルスを、今日、比較的純粋なかたちで継承しているのがマルクス兄弟で、とくにそのなかのハルポ・マルクスの演技は、つねに唖に扮しているせいもあって、ヨーロッパのパントマイムの精髄をつたえており、…」(59頁)
「ファースをつくるためには、人間を「物」としてとらえる非情な眼が必要だ。シジフォスを、シジフォスとしてではなく、クカラベ・サクレとして――あのファーブルの『昆虫記』の冒頭に登場して、糞の玉を押しあげていってはころがりおちる、カブトムシのようなものとしてとらえる眼がなければならない。」(176頁)と花田は言います。これを俳優の側から言うなら、みずからを「物」として「非個性化する」訓練が必要ということになるでしょう。その典型として花田が挙げる女優ミッツイ・ゲイナーは、「訓練に訓練をかさね、すっかり、贅肉をけずりおとしてしまった、機能化と単純化の極致」(191頁)であり、「かの女が、他のガールズと――かの女とほとんど瓜二つの、お互いに交換できそうにみえる連中と、一列に並んで、いっせいに、踊ったり、歌ったりしだすと、彼女の存在によって集団の一人一人が――そして集団の存在によってかの女自身が、突然、陸離たる光彩をはなちはじめるのだから不思議というほかはない。したがって、かの女の演技は――たとえそれが個人的な演技のようにみえるばあいも、集団的な演技の一部分として受けとられなければならないのだ。」(192頁)花田がミッツイ・ゲイナーの「非個性化」の完璧さを、「ムダというムダを、きれいに取除いてしまった鉄とガラスとでできた、アパートのような女優」と評するとき、やはり安吾が『日本文化私観』で言及する小菅刑務所とドライアイス工場の、「ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた」、「不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形」がもつ美を思わずにはいられません。