「ノリ」の映画術

黒沢清が『次郎長三国志』について、「もしこのシリーズ全九作を貫く物語上のテーマがあるとしたら、最初はささいな心理的葛藤の中にいたひとりひとりが、次第にその個性を消していって、いつの間にか誰が誰ともつかぬ非人間へと変貌していく、そのさまを描くことだったのではないかと思う。そして、あらゆる人間的葛藤から解き放たれた次郎長一家が、善でも悪でも仁義でもない不思議な「ノリ」に導かれて、あるとき突然「わっしょいわっしょい」とチャンバラを開始し、誰ひとり死にも傷つきもしない内に風のように終わっている…それがマキノが目指した八五分なのだ。」(黒沢清、「「対立」の存在しない活劇」、第六回京都映画祭公式カタログ、2008、35頁)と言うように、マキノ映画の登場人物たちは、例えば『續清水港』(1940)の舞台演出家(知恵蔵)が江戸時代にタイムスリップして森の石松を演じているうちに、やがて本来の自分の内面を捨象し、浪曲が伝える元祖森の石松という定型的な演劇的主体になりきってしまうように、「人間的葛藤から解き放たれた」「非人間」、まるで文楽人形のような様式的存在となることを目指してゆきます。
マキノ映画における登場人物の人形への近接は、『阿波の踊子』(1941)で海賊として処刑され阿波の人々の語り草になっている十郎兵衛譚の阿波人形浄瑠璃と、十郎兵衛の分身として回帰する弟(長谷川一夫)の仇討譚が並行して描かれたり、『昨日消えた男』(1941)で大家勘兵衛の死体が操り人形のようにかんかんのうを踊るポーズで発見される一方、人形師の妻が亭主の作った等身大の女性人形に嫉妬して、人形と色気を張り合い、挙句にそれを堀に捨て、水死体と間違えられ騒ぎになったりと、人形と登場人物の相似性・交換可能性が強調されてることからもうかがえます。
マキノ映画に頻出するお面もまた、登場人物を人形化する小道具として機能しています。山根貞男が、「『彌太郎笠』や『やくざ囃子』が示すように、お面が盆踊りの楽しい小道具にも暗殺の陰険な道具にもなり、運命の明暗を反転させ、死につながるとともにラブシーンを司りもする。」(山根貞男、『マキノ雅弘』、新潮選書、2008、58−59頁)と言うように、丁半の賽の目のように裏切りも「表返り」もする仮面のこのような反転性は、仮面が具現している無名の民衆の縦横無碍なエネルギーの在り方そのものであり、雅弘にとって民衆はニーチェ的な善悪の彼岸にあって、「善でも悪でも仁義でもない不思議な「ノリ」に導かれて、あるとき突然「わっしょいわっしょい」とチャンバラを開始」します。そして、マキノ映画の登場人物たちは、仮面を被ることでこの無名の民衆の一部となり、その力に後押しされ操られる人形のような存在として、やはりその「「ノリ」に導かれ」ます。幼い頃から河原乞食と蔑まれながら映画に携わってきた雅弘は、映画が本来無産階級のものであるという認識が体に浸み込んでおり、笠原和夫はそのような雅弘の根底にあるものを大正のアナーキズムと呼んで、その典型を『浪人街』(1957)に見ていますが(DVD『映画監督・マキノ雅弘〜’91湯布院映画祭マキノ雅弘監督特集記録〜』、DVD−BOX『マキノ雅弘高倉健』)、この作品でも絶対的な善人・悪人は登場せず、浪人たちは善悪の境界を自在に往き来します。
『日本残侠伝』(1969)では木場人足一家の親方を殺された秀次郎(高橋英樹)と舎弟が、祭りの夜に敵の屋敷に殴り込む時、長屋の衆が神輿を担いで屋敷に押し寄せ「わっしょいわっしょい」と盛り上がり、警察に内部の出来事を察知させないことで仇討の成就を後押ししますが、この「わしょいわっしょい」がいつも主人公を助けるとは限りません。『仇討崇禅寺馬場』(1957)では、遠城兄弟に仇と狙われる伝八郎(大友柳太朗)は、正々堂々と果し合いをするつもりでひとり崇禅寺馬場へ赴きますが、身を寄せていた荷揚人足一家の娘お勝が伝八郎を慕うあまり人足衆を率いて闖入し、伝八郎の制止も聞かず皆で遠城兄弟を惨殺してしまう。この卑怯な振舞ゆえに町衆たちから投石される始末となった一家の親方は名誉挽回を図るため、慙愧の念に正気を失い遠城兄弟の幻覚を追って崇禅寺馬場へ向かう伝八郎を討ち取ろうと、人足衆とともに「わっしょいわっしょい」と押し寄せる。最初は伝八郎の仇に向けられた人足衆の力が、次には伝八郎本人に向けられるという反転に、民衆のエネルギーのアナーキーな自在さがうかがえます。この丁半どちらに出るかわからない民衆の「不思議な「ノリ」」に雅弘はみずからの映画の根拠を置いたのですが、その「ノリ」が最大限に発揮されるのが、民衆のエネルギーの発露の場としての祭りであり、そこで「あらゆる人間的葛藤から解き放たれた」登場人物は、民衆と一体となった盛り上がりの中で、仇討と死、出会いと別離という「運命の明暗」に賭けることになります。
次郎長三国志』で前半の明から後半の暗への転回点となる『第五部』冒頭の長い秋祭りのシーンでは、祭りの夜の踊りが、男女が出会い結ばれる解放的な時間として描かれ、酒屋ではお千を他の男に取られた鬼吉と綱五郎がやけ酒を飲む一方で、次郎長一家では次郎長とともに子分衆に囲まれたお蝶が、初めて秋祭りで次郎長と踊った想い出を手振りを交えて語るという美しい場面が、『第六部』でのお蝶の死の伏線として見事な効果を上げています。お蝶に本心を告げられない次郎長が、秋祭りの夜に待っていたお蝶を誘い出し、黙ったまま踊りながらどんどん先へ行ってしまう。お蝶もまた同じように踊りながらどこまでも次郎長についてゆく。そうするうちにお蝶は踊りの喜びに充たされ、自分から次郎長に気持ちを打ち明けてしまう。マキノ映画においては、愛の告白も踊りの「ノリ」、仇討も踊りの「ノリ」、殴り込みも「祭りに浮かれて喧嘩するだけ」(『日本残侠伝』)のことです。「ノリ」とは、登場人物を重苦しい「人間的葛藤」から解き放つ、踊りの振りのように軽やかな弾み、いわば内面を捨象した仮面の喜びであり、このような「ノリ」としての民衆のエネルギーに突き動かされ、登場人物たちは文楽人形のような反重力性を獲得します。彼らは、祭りにおける民衆の一体感を、「わっしょいわっしょい」という定型的「ノリ」として表現しながら、その「ノリ」を演じる喜びを行動原理とすることで、近代的な心理主義から脱し、祭りの打ち上げ花火のように様式化された主体として、映画そのものの祝祭性を軽やかに証しするのです。