ジャ・ジャンクー『四川のうた』

「今日の映画はますますアクションに頼っています。私は映画が言語に立ち返ることを望みます。ある人々にとって、<語り>はキャメラによって捕捉される運動へと翻訳されるべきものです。私は、最も深い感情と最も複雑な経験が語りによって表現されることを望みます。」と、ジャ・ジャンクーは新作『四川のうた』をめぐって述べています。ジャ・ジャンクーにとって映画はこれまでも、ストローブの言う「口承文化のためのオールタナティヴ、代替物」としてあったのですが、『四川のうた』はそれをさらに先鋭化したかたちで示したと言えるでしょう。同時代的には、ワン・ビンの『鳳鳴(フォンミン)』やイン・リャンの『アザー・ハーフ』、あるいは是枝裕和の『ワンダフルライフ』(いまだに是枝映画の中で最良の作品でしょう)あたりに触発されたということも考えられます。つまり、インタビュー形式の語りによって映画を構成するというゴダールトリュフォーヌーヴェル・ヴァーグ以来の試みをジャ・ジャンクーは再度取り上げたのであり、「映画が発明していたのは、それまで演劇からも小説からものがれていた音声的会話であり、また会話に対応した視覚的ないし可読的な相互作用だった。」(『シネマ2』、319頁)とドゥルーズが語る映画における声の発見がここでは問題になっています。
四川のうた』における<語り>への回帰は、<工場の門>という映画の原点への回帰と結びついて現れます。工場を舞台に映画を撮りたいと考えていたジャ・ジャンクーは、すでに2000年に「工場の大門」という脚本を書き上げていたそうですが、2007年に成都の<420>国営軍需工場の解体・移転が決定されたという出来事に直面してはじめて構想が固まったといいます。映画の冒頭、キャメラは「成発集団」の文字を頂く巨大な門を俯瞰に捉えた固定ショットで工場へ流れ込む労働者たちの群れを映し出します。あたかもこの門が映画の主人公であるかのように、キャメラは映画の過程で繰り返しこの門を同じ俯瞰で捉え、工場を出て帰宅する労働者たち、人気のなくなった工場閉鎖後の静けさ、「成発集団」という巨大な文字の撤去作業、新たな文字に付け替えられた門を映し出し、工場解体までの時間の流れを提示します。その間にかつての労働者など10人ほどが、順次監督のインタヴューに答えるかたちで、この軍需工場をめぐる個人的物語を語ってゆくのですが、そのうちの4人は、『戦場の花(原題:小花)』(1979)の主演女優で「中国のエリザベス・テーラー」(?)ことジョアン・チェン、『青い凧』(1993)の母役リュイ・リーピン、友情出演の男優チェン・ジエンビン、お馴染みのチャオ・タオという著名な俳優によって演じられます。ジョアン・チェンは、29年前に彼女が演じた映画の主役・小花に似ていることで工場の労働者仲間から小花とニックネームをつけられた上海娘の過去と現在を語り、リュイ・リーピンは点滴ビンを片手で持ち上げたまま労働者宿舎街を通り抜け、工場で生産された軍用機のディスプレイの傍らを過ぎ、事務所で新任のチャオ・タオ演じる工員に最近の労働者は化粧をするのかと嫌味を言います。チェン・ジエンビンは、幼年時の喧嘩の思い出と山口百恵の「赤い疑惑」にまつわる失恋の記憶。泣き顔のテレビ的なアップを多用し過ぎではという気もしますが、語りの見事さゆえに許せてしまいます。
リュミエールの『工場の出口』で誕生した映画が、『日曜日の人々』の20年代には無名の人々の顔を記憶することを覚えたように、ジャ・ジャンクーは<420>の労働者たちの顔を、牛腸茂雄の写真のように正面からの固定ショットでとどめてゆきます。二人の男が肩を組んでキャメラをじっと見つめている。監督のOKが出るまでずっと不動のままいるのかと思うと、一方の男がもう一人の肩に置いた手をわずかに動かし、相手の首筋をくすぐっている。写真のように強張っていた二人の表情が、こらえ切れずに笑顔に変わる瞬間をキャメラは捉えています。瓦礫となったコンクリートの鉄筋を各々握りしめた一群の労働者が、正面を見据えて立っている。へたくそなインターナショナルを合唱する労働者一人一人の顔が左から右へのパンで捉えられた後、白煙を上げて崩落する工場の映像をもって、この最後のプロレタリアートへの讃歌は締めくくられます。ビトムスキーが『B−52』で、B−52の整備工場で働く労働者たちの「プロレタリア的誇り」を記憶しようとしたように、同じ制服に同じ姿勢で同じ動作を反復し、もはや男か女かもわからないほど没個性化した労働者たちの、集団の中の個であることの誇りを『四川のうた』は映し出します。
この作品は、最後のプロレタリアートへの讃歌であると同時に、映画の原点を訪ねる物語です。<420>の労働者を親に持つ一人の少女が、夕焼け空をバックにビルの屋上でローラースケートをしている。まだ一度も工場内に入ったことはないと語る彼女の軽快な滑りをリズミカルな音楽が伴い、日が暮れても少女はいつまでも滑り続けます。『リュミエールと仲間たち』(1995)でリヴェットもまたローラースケートの軽快な滑りを撮影していましたが、そこにはやはり映画の原点としてのチャップリンへのオマージュが込められているようです。