『チャーリーとチョコレート工場』

ティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』では、選ばれた5人の子供たちが工場の門を入り、工場の扉が開くと、自動人形たちが彼らを迎え歌い踊り始めます。しかし、よく見ると人形の顔には老朽化による染みがついており、やがて点火される花火によってそれらは炎上し醜く溶けてゆきます。チョコレート工場という夢の世界を演出する自動人形のメルヘン性と無気味さという二重性が、工場の門と結びつけられます。このチョコレート工場は、密林の厳しい生存条件の中にいたウンパ・ルンパにとっては、無数の分身=コピーとしての労働者の人工楽園=ユートピアとしてありながら、チャーリーを除く4人の子供たちにとっては機械地獄となります。無数のコピーを生産する機械による夢の演出と無気味さという二重性は、もちろん映画そのものにも当てはめることができるでしょう。チョコレート工場が真のユートピアとなるのは、ウィリー・ウォンカが猜疑心に苛まれる孤独な経営者から、夢を信じる力をもつチャーリー少年に媒介されて、父=クリストファー・リーとの和解を経て共同体を形成することによってです。複製装置としての機械は作動し続けながら、つまり自動人形の無気味さは存続しながら、やはりどこか機械的な無気味さをもつ父と和解すること。それは『ビッグ・フィッシュ』でもテーマとなったウソの力、作り物を信じる力によってはじめて可能になるということでしょうか。フィクションとしてのユートピアがなければ、映画は無気味な自動人形の反復性の中で窒息してしまうのかもしれません。