『ライフライン』

ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』で、映画は人生のあらゆる場面に入り込みそれを見つめるものとして捉えられていましたが、人生とともに労働を、とくに手によってなされる仕事を記録するものとしてもありました。何かを塗る手、洗う手、研ぐ手、電話回線を繋ぐ手、タバコ箱を作る手、タバコを詰める手、フィルムの編集をする手など、カメラは手を撮り続けていました。
ヴィクトル・エリセの『ライフライン』でもやはり手仕事によって結ばれた共同体が描かれています。各人がそれぞれの手仕事に従事することで形成されている1940年時のこの共同体は、山に囲まれ聖母像に庇護されたユートピア的なものとも見えます。そこには二重の時間、少年が手首に鉛筆で描いた時計で聴く共同体固有の時間と壁の振り子時計が刻む歴史の時間とが流れています。歴史の時間は過ぎ去った過去の静止画である白黒写真として、また、新聞記事のナチスの写真として示されながら、赤ん坊の臍の緒から流れる血が白い服をゆっくりと染めてゆくように、共同体固有の時間を徐々に浸蝕してゆきます。母親の叫び声とともにすべての人々が手仕事を中断し、赤ん坊の回りに集まり、その命を見つめるこの共同体は、やがて歴史の時間の中で消滅することになるでしょう。それが消え去る寸前の夢のようなまどろみの時間を、その子守唄を(「今はまだ逝かないで…」)、エリセは映画として伝ようとします。
映画は、形のないものに形を与えるが、それはせいぜい「眠りの形」にすぎないとゴダールは言います。それをデリダ的に「夢の思考」と呼ぶこともできるでしょう。「目を覚まし、不眠と覚醒とを培うと同時に、夢の意味に注意し、夢の教えとその明晰さを堅く信じ、何かを夢が私たちに差し出すとき、それが不可能なものの可能性である場合はとくに、何を夢が私たちに考えさせようとしているかに気遣わねばならないのです。不可能なものの可能性とは、夢みられるほかない。」*1

*1:ジャック・デリダ『フィシュ』(逸見龍星訳、白水社、2003)、21頁。