ファウンド・フッテージ映画

機械が人間を代替し、人間は機械を遠隔操作することで、出来事を直接体験することがなくなり、出来事が情報の送受信へと解体されていくサイバー時代。例えばマンスキーが言うような世界的インフォメーション・バンクからイメージを引き出し組み合わせて作る未来のファウンド・フッテージ映画は、現実世界を経ることなく、過去のイメージ断片の集積からのみ作られるまさに非‐出来事の映画ということになるでしょう。問題はその非‐出来事が地球規模のメディア・テクノロジー支配に従属するインフォルマティックな共同体的言説にとどまるのか、それとも非‐出来事を映画的本質の現前として生起させられるのかということでしょう。喪の芸術としての映画は、すでに不在のもの、出来事とさえならず過ぎ去ったものを対象としています。過去の映像の中に歴史的出来事によって覆い隠されている非‐出来事の亡霊的回帰を映画的出来事として提示することで、メディア・テクノロジーの均質化作用に抵抗すること。メディア・テクノロジーの運命を共に辿りながら、その内部にさらにひとつ非‐出来事を増殖させるのではなく、外から非‐出来事を到来させメディア・テクノロジーへの抵抗の拠点とする道をファウンド・フッテージ映画は模索してゆくことになるのでしょう。