『B‐52』

ビトムスキーの『B‐52』をめぐるファロッキとビトムスキーの対話*1(抄訳)

「この映画では、人々が飛行機を手入れし、修理し、油を差すのが見られます。人々が忙しく動き回るのは、映画の中で―喜ばしいことに―起こらないこと、すなわち出撃のためです。(…)B‐52が象徴する冷戦は、出来事やドラマ性についてのわれわれのイメージに当てはまりません。冷戦は、非‐出来事なのです。」(ファロッキ)
「さらにB‐52は、その軍事的定義からして、近代遠距離兵器です。本拠地は出撃地からできる限り遠く離れていなくてはなりません。出来事は経験されてはならないのです。それゆえ、映画はただ周縁からしか生起していることの焦点へ近づくことができません。映画は、出来事を直接体験し再現することを信じているシネマ・ヴェリテのあの幻想を生み出そうとはしません。」(ビトムスキー)
「この複雑な技術的対象と関わっているすべての人が、それを「支配してる」がゆえに誇りをもっていることを、私は少なくとも示そうとしました。(…)これらの人々には、自分たちの仕事に対するプロレタリア的誇りがあります、それはベルトコンベアーの労働者には見出せないものです。私はそのような姿を捉えようとしました、なぜなら、それは未来のポスト工業時代には失われてしまうでしょうから。」(ビトムスキー)
「B‐52とともに何が失われるのでしょう?本来、それは50年前に冷戦のために構築され、その冷戦とともに滅びたのです。しかし、その後もまた、イラクからアフガンに至るまでそれは出撃しました。ちょうど、多くの人がすでにその存在を否定しながら、にもかかわらず繰り返し用いられる国民国家のようなものです。」(ファロッキ)
「B‐52は技術的には第二次大戦からのものです。それは、メッサーシュミットやハインケルから来たドイツのエンジニアの助けを得て発達しました。(…)決定的な技術的理念はそのドイツ人たちに由来しています。(…)そして、戦争は祖国ではなく、どこか他所でなされねばならないという軍事的理念もそうです。(…)それゆえドイツの戦争遂行形態は急襲の性格を取りました。」(ビトムスキー)
「B‐52は、技術的のみならず全体として、時代と時代を繋ぐ蝶番のようなものです。それはすでにグローバル化の特徴を先取りしていました。映画の中であるアメリカ兵が、B‐52があれば、われわれは他国に基地を建てる必要もなく、世界のあらゆる地点に到達できると言うように。B‐52は、アメリカのグローバルな現前のメタファーです。それはアメリカの世界政策における二つの相反する、しかしなお互いに組み合わされた基本指向、すなわち覇権主義と孤立主議を統合するのです。」(ビトムスキー)
「二つの大陸にまたがって働く企業があります。こちらではデザインが企画され、むこうでは生産がおこなわれ、コミュニケーションはインターネットでなされます。これはフロリダ‐アフガンの例(アフガンに無人兵器を送りフロリダから遠隔操作する戦争形態―訳者)に民間レベルで相応するものです。(…)民間の領域では、すべてができるだけうまく機能するように理想的な条件を設けることができます―作業場を均等で常に一定の光で照らすことです。これに対し、人工知能カメラ兵器においては多くの予期せぬことがあります―フロリダで使用可能な映像を撮るのを妨げる雲、髭のせいで確認不可能な人々。その際、二つの可能性があります―作業場同様、世界に均等な照明を当てねばならない、あるいは、兵器カメラを改良しなくてはならない。ご存知のように、どちらもなされつつあります。」(ファロッキ)