2005-01-01から1年間の記事一覧

映画の未来

マンスキーがインタビューでドキュメンタリー映画の未来について問われて、「もしかしたら全世界的なインフォメーション・バンクが出現し、監督はもはや映画を撮る必要がなくなり、ただそのバンクから幾つかのイメージを取ってきて、それらをモンタージュし…

素晴らしき放浪者

小津の『出来ごころ』で借金を返すために北海道行きを決意した喜八が、突貫小僧と感動的な別れをして船に乗り込んだのに、銚子のあたりで「忘れ物したから先帰るわ」と言って海に飛び込むのは、ルノワールの『素晴らしき放浪者』みたいでとてもよかった。と…

ファウンドフッテージの映画

みずからをソ連時代最後の世代と位置づけるヴィターリー・マンスキーの『青春クロニクル』は、ファウンドフッテージによる映画の可能性を十分に感じさせるものでした。1945年から1991年にかけてソ連各地のアマチュア映画作家たちによって撮られた厖大なフィ…

自動人形ヘルダーリン

晩年の狂気のヘルダーリンの様子を伝えるヴァイプリンガーの日記によれば、彼が保護されていたチュービンゲンの塔からの眺望を褒めるヴァイプリンガーに対して、ヘルダーリンは、「はい、はい、閣下、美しい、美しい!と答え、それから部屋の真ん中へ行き、…

技術への問い

人間を大地から引き離し無根化する技術の制御できない無気味な運動のただ中に、存在の真理を抑制的、永続的に開示する技術としての詩作を、技術のより原初的な本質として見出すこと、ハイデッガーは技術をそのような二義性において捉えようとしているようで…

ハイデッガーと技術時代

「近代的技術の惑星的運動は一つの威力であり、歴史を規定するそれの偉大さはどんなに大きく評価されてもされすぎることがないほどです。」「すべてが機能しているということ、そしてその機能がさらに広範な機能へとどんどん駆り立てるということ、そして技…

ルーシュ/ストローブ

1993年4月24日にラジオ放送されたストローブ=ユイレについてのインタビューで(http://filmkritik.antville.org/stories/846213 DAさんありがとう)ジャン・ルーシュは、記憶に残るショットを挙げてくれという質問にこう答えています。 「『エムペドクレス…

『エレニの旅』

アンゲロプロスの『エレニの旅』を見たら、ギリシャのチンドン屋さんたちが昨日のライブと同じような音楽をやっているし(思わずクラリネットを聴き比べてしまいました)、水没した村の人々が焚き火を囲んでサムルノリのようなギリシャ正教の儀式をしている…

ちんどん通信社

韓国のサムルノリのCDを聴きながら、日本のサムルノリ(?)、ちんどん通信社のライブに行きました。ちんどんのみの前半はとてもよかったけれど、後半のゲスト・大工哲弘とはかなりミスマッチだったような。ジャージ川口のつっこみもなくなったし、本人も…

身体の演劇

80年代の演劇の主流が、唐十郎的な特権的身体の演劇からプライベートな言葉の演劇へと移行してゆくなか、あくまで身体の演劇にこだわった風の旅団の芝居は時代遅れとして政治的風評以外にはほとんどまともな演劇批評の対象とならなかったと思いますが、85年…

オルケスタ・デル・ビエント

町田康のINUが立命出身の林幸治郎(現・ちんどん通信社社長)に宣伝を依頼して同志社でライブをやっていた頃、3ヶ月ほどINUにいた関西学院の小間慶大は同大学での風の旅団の公演を契機に(「洗脳」テントから連れ戻そうとする町田の願いもむなしく)音響スタ…

曲馬館・風の旅団

曲馬館のテント芝居の全国巡業を記録した布川徹郎の『風ッ喰らい時逆しま』を見て、80年代後半に八幡山で見た風の旅団の公演の記憶が甦り、曲馬館劇歌集『泪橋哀歌』と『オルケスタ・デル・ビエント〜風の旅団・劇中音楽集』にしばし聴き入ってしまいました…

コスタ・小津・ターナー

「映画はドラマである、アクシデントではない」という小津安二郎の謎めいたフレーズから、「自分自身を切り取ってしまう花は自殺する」というジャック・ターナーのさらに謎めいた言葉を思い出したと言うペドロ・コスタ*1。「映画というのは世界を見せるため…

閾の人ゴダールにとって橋は、『新ドイツ零年』で黒服のドラが橋を渡ると白服に変わっていたり、『映画史3a』冒頭で美女と野獣、国家と民衆のイメージの交代の間に突然、ルネッサンス的な石橋の絵が挿入されたりと、特権的な機能を担っています。オリヴェイ…

花田清輝

赤坂大輔氏のアルタヴァスド・ペレシャンへのインタビューで、ペレシャンが映画を、存在と非在の間を揺れる粒子の運動として語りながら、古代エジプト人にとってのピラミッドに喩えているのを読んで*1、花田清輝のこんな一節を思い出しました。 「ピラミッド…

リノ・ブロッカ

フィリピンの映画作家、リノ・ブロッカの『マニラ・光る爪』(75)は、アメリカン・ニュー・シネマのようなのにカット繋ぎがすごくはやく、過去へのフラッシュバックと歌謡曲を散りばめたメロドラマかと思うとマルコス政権下のアメリカ・日本(主人公がコール…

『動・響・光』

槌橋雅博の新作『動・響・光』では、『血と骨』の中村優子による神戸・長田をめぐるドキュメンタリー的語りと犬になったり左手を落としたりする男の神話的語りという二つの物語が、第三の縄文的舞踊の部によって媒介され、朱と青の帯、空の太陽と水溜りの太…

『ミリオンダラー・ベイビー』

『ミスティック・リバー』で罪と贖罪をテーマにした「カトリック的な」(もちろん良い意味で)作品を撮ったイーストウッドでしたが、新作『ミリオンダラー・ベイビー』は、テーマ的にはその延長にありながらも、ブッシュとカトリック教会が共同で反対キャン…

『オペレッタ狸御殿』

鈴木清順の『オペレッタ狸御殿』は、とても幸せな気持ちにしてくれる映画でした。木村威夫の左右対称に構成された幾何学的美術セット、本物なのにいつもながら人工的な美しさを湛えた桜、内田吐夢の『恋や恋なすな恋』を思わせる菜の花畑、パラジャーノフの…

『悲しみは空の彼方に』

ダグラス・サークの『悲しみは空の彼方に』(原題『イミテーション・オブ・ライフ』)は、イミテーションに賭ける情熱と、イミテーションであることの悲しみについての映画です。ラナ・ターナー演じる女優は、イミテーションの芸術としての演劇への情熱にお…

『ドッペルゲンガー』

分身とは近代的自我の抱える病でしょう。自分の中に善い子と悪い子、ジギルとハイドン、真の自分と偽の自分がいるという分裂に悩む病。しかし、実際にはそこに分裂などなく、自我は善と悪、真と偽の間で適当に妥協しながら生きてゆきます。どうしたらこの凡…

アジアの友人の話

アジアの友人がこんな話をしてくれました。「私たちは、中国、台湾、韓国、北朝鮮などで、EUのアジア版AUをつくろうと考えています。しかし、日本の政治家がいまだに「大東亜共栄圏」の夢を見ているのであれば、日本はそこから排除されざるをえないでし…

佐藤真の『中東レポート』

国内に反アジア・ナショナリズムの波を起こして、それを憲法改正、9条削除、徴兵制導入へ結びつけようとする政府・自民党によるマスコミ操作がいよいよあからさまになっていく今、せめてTBSあたりが佐藤真の『中東レポート アラブの人々から見た自衛隊イ…

身体の映画

エイゼンシュテインの誕生から死までの「自伝」という形式を取りながら、彼のフィルムのうちにロシア史や社会主義建設ではなく、自然のリズムの表現としてのダンスの動きと線を見出そうとするオレーグ・コヴァロフの『エイゼンシュテイン自伝』は、やはり詩…

『サマリア』

キム・ギドクの『サマリア』では、最初の「バスミルダ」の章でずいぶん多くの機械が出てきます。少女たちが、客との通信に使うパソコン、携帯。インドの菩薩的娼婦にちなんで自分をバスミルダと呼ばせる少女が客に取るのは、自動ドアのセンサーを扱うセール…

羽田澄子

羽田澄子さんは、大連生まれの旅順育ち。グルジアの画家ピロスマニについてのゲオルギー・シェンゲラーヤの伝記映画を見た羽田さんが、ピロスマニが夢見ていた木の家について語っているのを読んで(『映画と私』、晶文社、2003)、子供時代に育まれた大陸的…

下北沢

「現代思想」5月号が、失われたフォンタイーニャスについて語るペドロ・コスタのインタビューと都市計画で失われようとする下北沢を守る会“Save the 下北沢”の主張を並べているのを面白く読みました。高級住宅地に囲まれた下北沢を日本のフォンタイーニャス…

『映画史』3a

ゴダールの『映画史』3aで、映画は、ロッキングチェアーで揺れる老人のように、美女と野獣、民衆と国家、真と偽(言い間違い)、物語と反物語、無と一切、ドイツとフランスという2つの極の間を揺れ動いています。これらの間を揺れながら映画に可能な「何か」…

ダグラス・サーク

ダグラス・サークの素晴らしさはどこにあるのでしょう?破滅へ向かって疾走するスポーツカー、水上艇、飛行機などの圧倒的なスピード感。マックス・オフュルスのように優美なダンス・シーン。芝居の書割のような背景と至るところ眼にとまる絵画の装飾性。衣…

アメリカの東欧

アンディ・ウォーホールはもともとはウクライナあたりの出身らしいです。リトアニア出身のメカスと仲が良かったのもその辺の事情があるのかもしれません。フルクサス運動は東欧・ドイツ出身者によって生み出されました。 アメリカのジャーナリズムは、例えば…