花田清輝

赤坂大輔氏のアルタヴァスド・ペレシャンへのインタビューで、ペレシャンが映画を、存在と非在の間を揺れる粒子の運動として語りながら、古代エジプト人にとってのピラミッドに喩えているのを読んで*1花田清輝のこんな一節を思い出しました。
ピラミッド形の砂丘が、砂の粒と波との猛烈な対立を、対立のまま、統一した「状態」であることは繰り返すまでもないが、測らずもこの砂丘生成の劇的場面に遭遇し、たちまち荒れ狂う砂の波のなかに巻き込まれ、そのまま砂のなかへ埋葬されていった幾多の人間の記憶をもつであろう、沙漠の住人が、この形から、彼らの墓を連想したことは、これもまた、きわめて自然であり、まったく説明の必要のないことではあるまいか。したがって、ピラミッドは絶えず揺れうごいている沙漠のまとまりのなさにたいする人間の抵抗の表現ではなくて、反対に、そのまとまりのなさの極端に達したばあいの沙漠みずからの率直な表現であり、そこでそれが、静かな、固定した、確乎不抜の形を示せば示すほど、つねに緊張しながら波立っているような、いまにもずるずると崩れだしそうな、まるで狂暴な気ちがいの顔に折折あらわれるうつろな表情のような、一種の薄気味のわるさが漂うのである。」*2
残念ながら映画的感性に恵まれず、佐藤重臣にさんざん噛みつかれた花田清輝が、思わずも書いてしまった最も映画的な一節だと思います。

*1:http://www.ncncine.com/pelec.html

*2:花田清輝全集第三巻、講談社、1977、341頁。