ファウンドフッテージの映画

みずからをソ連時代最後の世代と位置づけるヴィターリー・マンスキーの『青春クロニクル』は、ファウンドフッテージによる映画の可能性を十分に感じさせるものでした。1945年から1991年にかけてソ連各地のアマチュア映画作家たちによって撮られた厖大なフィルムをモンタージュして、1961年に生まれた一人の架空のロシア人青年が1986年にソ連崩壊を予感しつつ就職するまでの青春クロニクルであるこの作品は、監督自身が言うように「ロシア映画史上初の「人民の」映画、大衆自身による映画」*1であり、同世代の誰のものでもありうる様式化された生を提示しています。赤ん坊の頃の入浴シーンから、離婚した母と訪れた黒海の自由な雰囲気、大学に隠れて受けた洗礼、反体制の祝祭としてのネプチューン祭り、前近代的な農村風景へと導くボルガ河下り、就職直前に再びネプチューンが現れる(と思ったら警官だった)河での水浴まで、まず地理的に水を辿ることがソ連国家機構からの逃走線を引くことであり、さらにその水がバッカス的水神の酒とダンスと性の宴という生のエネルギーの湧出と結びつくことで、ソ連時代最後の世代の権力への反抗の源泉として示されます。86年以降この架空の青年は、水神への生贄としてボルガ河に捧げられながら、いまもロシアに確かに生き続けているそうです。
一方、やはりファウンドフッテージを用いて詩人アンドレイ・ベールイの生涯を描いたアンドレイ・オシポフの『天使狩り―預言者詩人の四つの情熱』は、たえず強迫観念に苛まれつつ人生をも芸術として生きた呪われた天才預言者詩人という捉え方自体が古臭く思え、フッテージの使い方も、「詩人の恋」を語るところで『メトロポリス』の人造人間マリアやマネキン人形の映像を用いていたのが少し面白かったほかは、全体としてナレーションを補完する役割を出ていないのではないかという印象でした。