2005-01-01から1年間の記事一覧

『セルゲイ・エイゼンシュテイン自伝』

オレーグ・コヴァロフの『セルゲイ・エイゼンシュテイン自伝』は、エイゼンシュテインのフィルムのモンタージュをとおして、ダンス映画を作ろうという試みです。しかし、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』などの機械を主役としたバレー・メカニックと…

『ママと娼婦』

ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』では、電話から聞こえる声、レコードの歌声、ラジオの伝道番組の声など、機械をとおして聞こえてくる声がまずあり、登場人物たちはこれらの機械に接続された自動人形として存在しているかのようです。この映画における…

唐十郎の中原論

唐十郎は中原中也についてこう言っています。 「彼のあの物腰をつくったものこそ、決定的に、彼を見つめていたものだ。彼を見つめていたあの悲しみのオブジェをさえ見つめていたものがそれだ。それは、街である。」*1 「私たちに見えるものは、詩の中に現れ…

土本典昭(2)

土本典昭が主義とする「19世紀のコミュニズムの思想」*1とは何でしょうか。『みなまた日記』(作成1996・改訂2004)は、水俣の民衆の歌と踊りと祭りの記録のようでしたが、土本はこの点で60年代から一貫しています。『留学生チュア スイリン』(65)に描かれ…

『怪人マブゼ博士』(60)

32年の『怪人マブゼ博士』は、マブゼの閉塞性の呪縛が窓によって打ち破られる物語でしたが、60年にフリッツ・ラング自身がリメイクした『怪人マブゼ博士』においては、テレビがあらゆる空間に浸透して事件を見世物化し、密室というものが存在しえなくなった…

『珈琲時光』

侯孝賢の『珈琲時光』で、一青窈がほとんど横顔から撮られているのは、胎児の横顔として捉えられているからでしょう。一青自身が一人の胎児であり、その一青の中にも胎児がいて、外界のもの音に耳を澄ましている。踏み切りの警鐘の音、車のドアを閉める音、…

『映画史』

ゴダールの『映画史』でもっとも感動的な4bの盲目の人々のダンスシーンで引用されるベンヤミンのテクスト。2bでもウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』の映像とともに引用されていました。チャップリンとウェルズで始り、チャップリンとウェルズで…

中原中也(2)

中原中也は、自分が無の眼差しに見つめられているという意識を詩の出発点としていた人です。「草の根の匂ひが静かに鼻にくる、/畑の土がいっしょに私を見てゐる。」(「黄昏」)、「野原に突出た山ノ端の松が、私を看守つてゐるだろう。/それはあつさりして…

中原中也

鷲巣繁雄の『呪法と変容』から中原中也について…(続き)。 「ひとは彼の詩が「思い出」によって充たされている事に気づくであろう。しかし、この「思い出」は、我々が通常言う、記憶の彼方からやって来る過去の風景が単なる慰め手として登場するのとは異な…

鷲巣繁男

シベリアのことを考えながら、忘れられたギリシャ正教詩人、鷲巣繁男の本をめくっていたら、中原中也についてこんなことが言われていました。 「彼の詩は、丁度、昼寝から覚めた者がその統覚をとり戻す迄の、あの不思議な空間にゆさぶられ、次々に記憶の中に…

『シベリア人の世界』

土本典昭の『シベリア人の世界』(68)は、ジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』(72)を連想させます。ダンスが始まるとカメラを廻しているメカスのように、土本もシベリアの人々の歌と踊りと料理と酒に繰り返しカメラを向けます。野菜もできない…

『ミスティック・リバー』

ゴダールが言うように*1、死体に群がり死肉を奪い合う吸血鬼たちの物語であるロッセリーニの『ドイツ零年』で、ムッソリーニに因んで「閣下」と呼ばれる小児性愛者が支配する魔物の館に、エドムント少年は元担任教師によって案内されます。そこは一歩入ると…

『怪人マブゼ博士』

フリッツ・ラングのサイレントからトーキーへの移行期の作品『怪人マブゼ博士』(1932)では、ドアとともに特に窓が重要な役割を果たしています。まず、敵のアジトに忍び込んだホーフマイスターが、ドアの前で聞き耳を立て、振り返ると天窓が捉えられます。…

リトルネロ

「リトルネロとしての永遠回帰」*1 エロスとタナトスの関係をドゥルーズのように捉えるなら、fort:daのリズムとは、両者の対立・交替ではなく、脱性化されたエロスによる「偽装と置き換え」の反復のリズム、「<一>であるものの死」を促進しつつ生成・変容…

ドゥルーズ/フロイト

ドゥルーズは、フロイトのタナトス概念が、エントロピーとして計算されるような差異の消滅としての物質への回帰という物質主義に基づいていることを批判して、もうひとつの死のアスペクトを、ブランショを引用しながら、「自由な諸差異が、一個の<私>や一…

『アカルイミライ』

2003年のカンヌ映画祭で黒沢清の『アカルイミライ』が上映されて、当時はまだル・モンドの記者だったジャン=ミシェル・フロドンがすぐに取り上げて褒めていた、あの反応の早さは偉いと思いました。落ち目のカイエの評者たちは、ほとんど評価していないか、見…

せむしの小人

フロイトにとって自我が、幾世代にわたって反復された「多数の自我-存在の残滓を蔵している」「エスが特別に差異化された部分にすぎない」*1ように、ベンヤミンの分身的自我である「せむしの小人」も、太古の昔から<私>の全生涯をカメラのようにたえず見つ…

フロイト/ニーチェ

フロイトによれば、自我は身体の表面に由来する感覚が心的に投影されたものとのことです。その投影されたイメージとして、フロイトは、解剖学における「脳の小人」という概念を挙げています。「この「小人」は脳皮質の中で逆立ちしていて、かかとを上に伸ば…

マティス

「ある日、(マラルメの詩集の挿絵のために)百合を素描していました。自分がやっていることをほとんど意識せずに素描していたのです。そのとき、ピエールがドアをノックしました。私は怒鳴りました、「入ってはいけないよ、あっちへ行ってくれ、後でまたき…

ストリンドベリ/ニーチェ

ベンヤミンは、ユーゲントシュティールにおける神経系と電線の一体化に触れつつ、ストリンドベリの体内放電現象についてこんな証言を引用しています。「彼の神経は大気中の電気に対してひどく敏感だったので、雷が導線を伝わるようにその神経に伝わったそう…

モンテイロ/パゾリーニ

ストローブ=ユイレに捧げられ、セルジュ・ダネーがモンテイロに書き送ったという「ジョン・ウェインが北極でみごとに腰を使いこなす夢を見た」との言葉で始まる『J.W.の腰つき』では、冒頭、パゾリーニの『ソドムの市』を思わせる左右対称の空間として構成…

ジャン・ルノワール

ジャン・ルノワールの『マッチ売りの少女』(1928)では、玩具店のショーウィンドウを覗くカトリーヌ・エスランが、メトロノームに合せて演じたというチャップリン的動作で夢の玩具の世界に入り込んで自動人形たちと共演し、やがて登場する死神がそれら人形…

『アタラント号』

ジャン・ヴィゴ『アタラント号』 『カメラをもった男』がカメラを廻す円運動と様々な機械の円運動に溢れているように、『アタラント号』にも出航する船へ花嫁を渡す回転棒から、船の舵、手廻し洗濯機、水門を開ける回転レバーなど回転する機械類が頻出します…

ヴィゴとチャップリン

1931年、『水泳選手ジャン・タリス』を撮り上げたばかりのジャン・ヴィゴは、友人のストルクとともにニース滞在中のチャップリンに会いました。そのストルクにヴィゴはこんな手紙を書いています。「今日からニースで『街の灯』が上映される。行くつもりだ。…

エルマンノ・オルミ

最近のエルマンノ・オルミの歴史劇映画は、オリヴェイラやストローブ=ユイレの演劇=映画に近づいているような気がします。中国の女海賊(ヒロインの女優イチカワ・ジュンがよかった)を描いた『屏風の後ろで歌いながら』(2003)にしても、教皇軍の将軍ジ…

『犬猫』

井口奈己『犬猫』は、犬が猫に、猫が犬になってしまう不思議な分身感覚が素敵でした。スズのカレーライスを食べる古田と三鷹というよく似た男の反復、古田の家へ走るヨーコとスズ、アルバイト先の家を探して道に迷う二人の反復。そして、最後に、寝ているス…

チャップリン/マリオネット

チャップリンの機械的でありながら優美な動きを見ていると、クライストの『マリオネット劇について』で言われるマリオネットの優美さを思い出します。クライストはマリオネットの踊りの優美さに人間のダンサーはとても敵わないと言います。なぜなら、人間に…

ポルト/オリヴェイラ

ポルトは、ドウロ河の両岸の岩山の斜面にできた街です。ドウロ河に懸かる橋は、下で両岸を結ぶと同時に、その上方の岩山の頂き同士を結ぶという二重構造になっているため、ものすごい高さになり、上の橋から川面を見下ろすと足がすくみます。ドウロ河はここ…

リスボン/ターナー

リスボンには素晴らしいシネマテークがあります。こぢんまりとした入口を入り階段を上がるとビデオ・書籍売場があり、マックス・オフュルスの『ヨシワラ』、『ヴェルテル』、『魅せられて』など垂涎もののビデオが並んでいます。思う存分買物をして、一回り…

cinema before cinema

ゴダールが19世紀の産物と言う映画、その誕生を準備した文化・思想状況から生まれた映画的思考とは何か、その萌芽はどこまで遡れるのかを考えてみたい気がします。まだ生まれない映画の夢。それは、人間が機械と自分を接続することを覚えた時、機械に自分を…