せむしの小人

フロイトにとって自我が、幾世代にわたって反復された「多数の自我-存在の残滓を蔵している」「エスが特別に差異化された部分にすぎない」*1ように、ベンヤミンの分身的自我である「せむしの小人」も、太古の昔から<私>の全生涯をカメラのようにたえず見つめています。その小人に見つめられると人は、自分にも小人にも、注意力散漫になり、また、「彼に見つめられた者は、破片の山を前にしてうろたえることになる」と言われます*2。この「破片の山」とは、市民ケーンオーソン・ウェルズ)によって収集された瓦礫の山のように、「映写機の前身」であるこの小人によって取り上げられた全生涯の「忘却の半分」の未編集フィルムのような断片的イメージの集積にほかならないでしょう。小人は一回限りのものとして起こった過去のイメージの断片を忘却として蔵していて、「ガスマントルジージーと鳴る音のような」その声で、「世紀と世紀の敷居越しに」、こんな言葉を囁きます―「かわいい子供よ お願いだから/せむしの小人にも 祈っておくれ!」*3
「夢の世界では出来事が、決して同一のものとしてではなく、似たものとして、つまり見分けがつかないほどそれ自体に似たものとして出現する」*4ベンヤミンが言うように、せむしの小人と自動人形も、チェスの自動人形の時のように、似たもの同士として共謀しうるのでしょうか?ニーチェにおいてディオニュソスアリアドネーが、「お前の耳は私の耳」、「私はお前の迷宮だ」という分身関係で結ばれているように、せむしの小人と自動人形、過去と現在、一回的なものと反復的なもの、エロス死の欲動が、鏡像のように似かよった分身性において出遭うことがあるのでしょうか?

*1:『S.フロイト 自我論集』、ちくま学芸文庫、243頁

*2:ベンヤミン・コレクション3』、ちくま学芸文庫、1997、595頁

*3:同、596-597頁

*4:ベンヤミン・コレクション2』、2003、421頁