フロイト/ニーチェ

フロイトによれば、自我は身体の表面に由来する感覚が心的に投影されたものとのことです。その投影されたイメージとして、フロイトは、解剖学における「脳の小人」という概念を挙げています。「この「小人」は脳皮質の中で逆立ちしていて、かかとを上に伸ばし、後ろを見ており、周知のように言語領域を左側にもっている」*1。この言語領域は、自我が片側にだけかぶっているとフロイトが言う「聴覚帽」に当たるようです。この「聴覚帽」をとおして聴いたものこそが、自我=「小人」に決定的な作用を及ぼすのでしょうか。つまり、表面としての自我は、何よりも聴覚的なもののようです。「私は単なる耳にすぎなくて、それ以上の何物でもないのか?」と言うニーチェは、ディオニュソス的騒音のただ中に耳そのものとしてありながら、自分の前を鼓膜のような一隻の大きな帆船が、「幽霊のように黙々と滑ってゆく」のに出遭います。「耳を聾するような奔騰さえも死の静けさと変わ」るこの帆船=スクリーンの上に、分身としての自我、「私の第二の永遠化された自身」の場所があるのではないかとニーチェは考えます、それも「まだ死んではいないが、それにもかかわらずもはや生きてはいないで、精霊のような、静かな、観想的な、滑るがごとく、漂うがごとき中間存在として?その白い帆をあげ、巨大な蝶のように、暗い海洋の上を渡ってゆく船にも似て!」*2フロイトによれば、「死の欲動は基本的に<無口>であり、生の<騒音>の多くはエロスから生み出され」ます*3。では、ニーチェにおいても、反復強迫としての死の欲動は<無口>な「女性たち」の「遠隔作用」として、ディオニュソス的<騒音>に充ちたプロジェクターから投影される幽霊的分身としての自我を映し出す表面=スクリーンを形成しているのでしょうか?

*1:『S.フロイト 自我論集』、ちくま学芸文庫、2003、224頁

*2:ニーチェ全集10』、白水社、1988、126-127頁

*3:『自我論集』、254頁