『セルゲイ・エイゼンシュテイン自伝』

オレーグ・コヴァロフの『セルゲイ・エイゼンシュテイン自伝』は、エイゼンシュテインのフィルムのモンタージュをとおして、ダンス映画を作ろうという試みです。しかし、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』などの機械を主役としたバレー・メカニックと違うのは、主役が機械に限定されるのではなく、マチスのダンスの絵のように、エイゼンシュテインによって見られた世界を、裸の身体も動物たちも機械の動きもすべて自然界を流れるリズムに貫かれたものとして捉えている点でしょう。フォックストロットを習ったというエイゼンシュテインの、「リズムに合せて自由に踊れるところがいい、体の内部の力を感じられる、まるで河の流れのように」という言葉の引用が、この映画の主題を語っています。ここでエイゼンシュテインは世界を、「河の流れ」のようなリズムをもつ運動として捉えており、繰り返し挿入される列車中の彼の顔は、流れ去る風景の中にそのようなリズミカルな運動を見ているようです。ムルナウやフラハティーが水族であるとすれば、エイゼンシュテインは石族のような印象をもっていましたが、この映画は、その石族的なものの下にある水脈を発見しようとする試みのように思えます。そして、その映画的運動の端緒には、やはり子供がいるのでしょうか。赤ん坊の出産シーンに始まり、オデッサの階段を滑り落ちる乳母車から、階段を降りつつ手を振る子供たちのラストシーンに至るまで、それは子供の記憶に充ちながら、ルノワールの『河』のように、生と死を貫いて流れる河のリズムを刻む一連のダンスシーンとして構成されています。『十月』のブルジョワ婦人たちが労働者を傘で突き刺す場面をタンゴとして見せ、フリッツ・ラングの『メトロポリス』の工場労働者の動きをハリウッド製ミュージカルとモンタージュして見せるなど、すばらしいダンスシーンの連続です。