『ミスティック・リバー』

paulowniacahors2005-04-29

ゴダールが言うように*1、死体に群がり死肉を奪い合う吸血鬼たちの物語であるロッセリーニの『ドイツ零年』で、ムッソリーニに因んで「閣下」と呼ばれる小児性愛者が支配する魔物の館に、エドムント少年は元担任教師によって案内されます。そこは一歩入るとクリステルという奇妙な少女がブリッジして歩いている、ボッシュの魔界画のような空間です。この映画の幻想性にパゾリーニが『ソドムの市』で応えたように、クリント・イーストウッドは『ミスティック・リバー』で応えました。阿部和重も言うように*2、この作品は『荒野のストレンジャー』を連想させます。殺されたヒーローがゾンビとして還って来て、魔物の棲家である街を赤いペンキで塗り、復讐を成し遂げる。しかし、この西部劇で回復された正義は、『ミスティック・リバー』には見出せません。ここで問題となるのは、もはや正義ではなく、むしろ罪を負うことであり、罪における死者との結びつきの神秘でしょう。舗道の生乾きのセメントに名前を刻むことで、二人の少年、ジミーとショーンは、名前を半分まで書いて誘拐されたデイブの死という自分に責任のない罪を否応なく負わされます。その死んだ魂の集積場としての下水が、街を流れる川底に繋がっていることは言うまでもありません。やがてゾンビとして帰還するデイブは、人間であったことを忘れた吸血鬼として小児性愛者を殺害しながら、少年時に車の後部座席に乗せられたシーンを、警察でショーンらによって尋問される時、ジミーによって川辺で殺害される時、今なお彼が止まっている瞬間として反復します。一方、ジミーは、かつて自分を裏切った男をすでに一度川底に沈め、贖罪としてその家族に仕送りをしている。しかし、その殺害の罪への報いのように自分の娘が溝の中で殺されると、「うちの主人がやった」というデイブの妻セレステの裏切りの言葉によって、デイブを呼び出し改悛を求めます。改悛すれば許すと迫るジミーに対して、デイブはこの虚偽の改悛をあえて演じることで自ら命を絶ったようにも見えます。デイブを処刑したジミーは、一度死んだ人間を今度は自分の責任において無実のまま殺害したという十字架を背負った「王」として元の生活に戻ります。十字架の道行のような少年たちのパレードを眺める「王」は、その幾層にも堆積した罪の深さにおいて、もはや裏切り者ユダ=セレステの絶望とは何一つ接点をもたないようです。この「王」は、黒沢清の『アカルイミライ』で「俺はお前たちを許す」と語る「父」とどこか似ているのではないでしょうか?

*1:『映画史Ⅱ』、筑摩書房、1990、355-357頁

*2:文学界、第58巻第2号、276頁