リトルネロ

リトルネロとしての永遠回帰*1
エロスとタナトスの関係をドゥルーズのように捉えるなら、fort:daのリズムとは、両者の対立・交替ではなく、脱性化されたエロスによる「偽装と置き換え」の反復のリズム、「<一>であるものの死」を促進しつつ生成・変容する幽霊的自我の明滅のリズムということになるのでしょうか。それはおそらくドゥルーズが、リトルネロと呼ぶものと関わっています。リトルネロには3つの局面があります。まず、カオスの中におぼつかない中心点を設けようとするリトルネロ、次にカオスに対して声と音によって壁を作り境界を整えようとするリトルネロ、そして再び輪を開き、誰かを呼び入れるか、歌に身をまかせて外へ出て、新しい逃走線を接木しようとするリトルネロ*2リトルネロは、鳥が歌によってテリトリーを示すように、まずなによりもリズムによる領土化であり、そして、この領土化はたえず脱領土化と再領土化へと移行します。ドゥーズが掲げているパウル・クレーの『さえずる機械』という作品タイトルも告げてるように、領土化のリトルネロが、「これを脱領土化する運動に組み込まれると(…)、必ずひとつの機械が始動する」*3。つまり、リトルネロは、ニーチェが言うように「非意志的に」(2005-04-20)、機械的に作動します。ドゥルーズは、ゲオルク・ビューヒナが描いた分裂病者レンツをとおしても、そのような諸機械の連動ついて語っていました。
「一切は機械をなしている。天空諸機械。天の星々や空の虹。アルプス諸機械。これらの機械は、レンツの身体の様々の機械と連結している。ここにあるのは機械のたえまなく唸る音。(…)このような機械の中に自分の身体をひとつの部品として滑り込ませること。(…)彼は自然を自然としてではなく、生産の過程として生きる。(…)至るところに生産する諸機械が存在する。(…)私と私でないもの、外なるものと内なるものとの区別は、もはやここでは何の意味ももたない。」

*1:千のプラトー』、河出書房新社、1994、395頁

*2:同、359-360頁

*3:同、384頁