ドゥルーズ/フロイト

ドゥルーズは、フロイトタナトス概念が、エントロピーとして計算されるような差異の消滅としての物質への回帰という物質主義に基づいていることを批判して、もうひとつの死のアスペクトを、ブランショを引用しながら、「自由な諸差異が、一個の<私>や一個の自我によって与えられる形式にはもはや服従していない」状態、「個体的なものはもはや<私>と自我の人称的形式の中に囚われていず、(…)もろもろの世界が出現するような事態」*1として提示しています。それは、ゴダールの『新ドイツ零年』で、「一昨日、私はマルガレーテ・キルヒナーだったけど、明日はグレタ、フリーダ、ヘルタ、パウラ、クラウディア、マルーシャ…になるの」と叫びながら駆けて来る「ひとつの形をもたない乙女たち」のように、「<一>であるものの死を、「これを最後に」促進しかつ巻き込んでいる」「永遠回帰*2の運動とも結びつけられますが、ドゥルーズによれば、このような死の欲動エロスから区別されるものではなく、むしろ、「タナトスは、エロスの脱性化と、すなわち、フロイトが語っているそのような中性的で置き換え可能なエネルギーの形成と、完全に混じり合って」*3います。フロイトは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪を犯したので、この鍛冶屋の代わりに、村に三人いる仕立て屋の一人が処刑されたという逸話を語りながら、「この置き換えのエネルギーが、脱性化したリビドー」であり、このエロスの脱性化において、「自我はエロスの意図に反して働いているのであり、エロスに対立する欲動(―タナトス)の動きに役立っていることになる。」*4と言います。つまり、生を「破片の山」として示す「せむしの小人」のように、エロスの残骸の中で自我が無数の仮面(偽装と置き換え)を「わが身に引き受けて、それらをおのれ自身の死に関わる変状へと仕立て上げる」*5脱性化されたエロスの反復運動のうちに死は現前しながら、なおかつ死は「あらゆる物質を放棄してしまった純然たる形式」=「時間という空虚な形式」*6としてエロスと差異化されるとドゥルーズは考えます。

*1:『差異と反復』、河出書房新社、1996、179頁

*2:同、182頁

*3:同、179頁

*4:『S.フロイト 自我論集』、ちくま学芸文庫、252-253頁

*5:『差異と反復』、180頁

*6:同、178頁