チャップリン/マリオネット

チャップリン機械的でありながら優美な動きを見ていると、クライストの『マリオネット劇について』で言われるマリオネットの優美さを思い出します。クライストはマリオネットの踊りの優美さに人間のダンサーはとても敵わないと言います。なぜなら、人間には自分を見せようとする意識があって、それが人間をマリオネットの無意識の優美さから遠ざけてしまうからとのこと。そして、クライストは、意識=0のマリオネットと動物を、意識=∞の神の対極にありながら重なり合う両端と見なし、その間の中途半端な位置に人間はぶら下がっていると考えます。では、人間はどうすればいいのかというと、エデンの園から追放されてしまった人間はもう意識=0状態へ逆戻りはできないのだから、むしろ知恵の実を食べ続け、ぐるりと一周してエデンの園の裏口から入るしかないというのがクライストの結論です。つまり、自然との一致を失った人間は、とことん人工を極め、人工をとおして自然と同じ状態に至るしかないということでしょう。ベンヤミンが、「機械から解放された現実の相を、映画表現がまさに現実に機械装置を徹底的に浸透させることによって与えてくれる」と言うのもこれに近い考え方と思います。
ところでチャップリンの優美なマリオネット的演技は、どうやって生まれたのでしょう?『犬の生活』の慣れない酒場で働くヒロインの引きつったウィンク、痙攣のような誘う仕草、調子の狂ったロボットのようなダンス、あるいはチャップリンが後ろから二人羽織で操る気絶した強盗の無表情な顔と優美な手の動き、これらはルットマンが『伯林―大都会交響曲』で都市生活者の画一化された動作の反復と都市の動力としての機械の円環運動をモンタージュで繋いで見せたように、人体の自動人形的側面を強調し、その機械的動作にコミカルなリズムあるいは優美さを加味することで成り立っています。それは初期のアメリカ映画が観客としたニッケル・オデオンの移民労働者たちの日々の労働の機械的反復性に対してチャップリンがもちえた感受性から生まれたのではないでしょうか。