ジャン・ルノワール

ジャン・ルノワールの『マッチ売りの少女』(1928)では、玩具店のショーウィンドウを覗くカトリーヌ・エスランが、メトロノームに合せて演じたというチャップリン的動作で夢の玩具の世界に入り込んで自動人形たちと共演し、やがて登場する死神がそれら人形の動きを一瞬にして止めてしまうというシーンがありました。この遊戯性とそれが止んだときの死の静寂が、ルノワールの映画の特徴のひとつと言えるでしょう。『ゲームの規則』(1939)でも、錯綜とした恋愛遊戯から生じるドタバタ劇が一方で展開されながら、ゴダールアウシュヴィッツを予見していると言う兔狩りシーンで痙攣しながら死んでゆく兔の姿、宴の出し物として自動ピアノの演奏に硬直して聴き入る観衆を前にみごとな照明操作で踊られる幽霊と死神のダンス、兔狩りを反復するように猟銃で撃ち殺される飛行士アンドレと、死の影が色濃く反映されています。遊戯性と死の二重性は、パリのラ・シュネイ侯爵の奇妙な鏡張りの館の空間そのものではないでしょうか。そこに出入りする人々は鏡に映る自身の分身を見ることになります。ラストでアンドレが殺されるのも、オクターヴのコートを着た分身としてでした。そして、この鏡による二重の空間を支配しているのがラ・シュネイ侯爵によって収集された自動人形たちです。この自動人形たちは、ラジオ、飛行機、電話、望遠鏡とともに技術時代の運命の規則を司るものとしてありながら、もう一方で『草の上の昼食』(1959)に登場する牧神のように、人々を奔放な愛へ駆り立てる原始的衝動とも結びついているようです。エロスとタナトスが交差する自動人形の二重性からどのような「ゲームの規則」が読み取れるのか、例えばベンヤミンは次のように述べています。
「周知のように、チェスの名手である自動人形が存在したと言われる。この自動人形は、相手がどんな手を指してきても、その一局を確実にものにする応手でそれにこたえるように作られていたというのである。トルコ風の衣装を身にまとい、水煙管を口にくわえた人形が、大きなテーブルに置かれた盤を前にして席に着いていた。複数の鏡を組み合わせたシステムによって、どの方向から見ても、このテーブルは透明であるかのように錯覚させたのだった。本当は、テーブルの中にチェスの名人である傴僂の小人が潜んでいて、その小人が綱で人形の手を操っていた。(…)<歴史的唯物論>と呼ばれるこの人形は、いつでも勝つことになっている。この人形は誰とでも楽々と渡りあえるのだ。ただし、今日では周知のように小さく醜くなっていて、しかもそうでなくても人目に姿を曝してはならない神学を、この人形がうまく働かせるならば、である。」