土本典昭(2)

土本典昭が主義とする「19世紀のコミュニズムの思想」*1とは何でしょうか。『みなまた日記』(作成1996・改訂2004)は、水俣の民衆の歌と踊りと祭りの記録のようでしたが、土本はこの点で60年代から一貫しています。『留学生チュア スイリン』(65)に描かれる政治闘争は、留学生たちの新年会での歌合戦に始まり、中国人留学生がリードするインターナショナルの合唱で頂点に達しました。『シベリヤ人の世界』(68)は、革命50周年を迎えるソビエト国家の宣伝イメージに収まりきらない、シベリヤの大地に生きる民衆の歌と踊りと宴の記録であり、『水俣―患者さんとその世界―』(71)では、水俣の海でのたこ獲り、ぼら漁の団子作りなど、その土地に根差した生活・習慣が記録されながら、口笛で鳴き鳥を育てる患者さん、オルガンで演歌の弾き語りをする胎児性患児の兄、ステレオでレコードを聴きながら難聴を補うかのようにスピーカーの振動を手で触れて確かめる弟、海の歌をうたうやはり胎児性患児の少年など、個々の患者たちと歌との一連の関わりが、やがて鈴の音に伴われた和讃の恨み節へと連なり、大阪のチッソの株式総会でのその大合唱においてクライマックスを迎えました。
ジョナス・メカスは、歌と踊りと宴を繰り返し撮り、それが根差す大地と大地を踏む足に好んでカメラを向けながら、自身は帰るべき大地を失った根無し草として砂漠的環境に身を置き続けていますが、水の作家・土本もまた、水と民衆の生活の結びつきにたえずカメラを向けながらも、そこで撮られるのは水と民衆の調和ではなく、その疎外された様態において、水とともに病む民衆の身体の捩れであり、病みつつなお美しい水の下に堆積する死者の怨恨であり、その怨恨が政治闘争となる現場です。水とともに病みながら、しかも、水と離れては生きてゆけない民衆は、自己と水との同一化において、水の痛みを自己のものとして生きつつ(例えば『不知火海』で自分と魚を同一化する女性)、その土着性の発露としての歌と踊りにおいて、なおも自己と水との絆を肯定してゆきます。すなわち、水は、黒田喜夫が大地について言うように、「すべてを受入れ慰めてくれる母ではなく、私たちの不具を生んだ苦しみに満ちた母として私たちにつながっている」*2。水とともに病む痛みのエネルギーを、歌と踊りの肯定性へと転化し、新たな闘争の出発点とすること。『みなまた日記』の喜納昌吉のコンサートのラストで踊る人々の中にカメラが最後に捉えるのは一人の子供でした。この無心に踊る子供の姿を見出すことから土本の「コミュニズム」は始るように思います。
「もしも夏の光の無音の世界に、遠い外の方からではなく、そこらの茂みから裸の子供たち、まだ犯されない獣たちのざわめきがきこえてくるようなとき、はじめて寂しさが破られ、かすかな歌のきざしが感じられることがあるのだ。彼らのリズムと言葉たちが、受動と宿命の音楽に少しも犯されていないといったら嘘だが、それはまだほのかな風土性として歌の表情になっているにすぎないからだ。彼らの歌の粗鉱にはまだ官能のこらえきれない声が、方言のリズミカルなシラブルと原メロディの抵抗としてかくされているからだ。」*3

*1:土本典昭フィルモグラフィ2004、3頁

*2:『詩と反詩』、勁草書房、1973、379頁

*3:同、470-471頁