「剥製―眼球」

カメラが同時にスクリーンであること、「あなたが何を考えてるか、わかるわよ」と言うマネの女性の眼差し。解体社清水信臣は、それを土方巽の「剥製―眼球」に託して語っています。
「この「眼球」は、すなわち「剥製―眼球」は、すでにいかなる事物も意志的に眼差すことはない。それは見返さ(せ)ない、なにものとも決して対峙し(させ)ない。ただ見守(られ)る。刹那のまばたきさえ拒絶した(された)みずからの「眼球」のその「表―面」に、ただ事物を映させるがままにして「剥製―眼球」は、一枚の「夢を映すスクリーン」に成り、それをみるものは、その「幕―膜」を透して、つまり「剥製―眼球」を媒体にして、破砕された個的な文脈―生活史/歴史の痕跡―破・風土―監禁された「東北」から不意に話しかけられるのだ。」*1
清水によれば、「突っ立った死体」としての「肉体」=「剥製」に埋め込まれた「眼球」は、土方において、他者としての「東北」からの視線を映すスクリーン=「メディア=媒体」としてあり、「舞踏」とは、身体を絶対的受動性において外からの視線に晒す「メディア・テクノロジー」ということになるようです。

*1:清水信臣「「夢」の体制―殲滅される身体」、『舞台芸術』02、京都造形大学 舞台芸術研究センター、145頁。