マンデリシュターム/モンテイロ

ペテルブルグの詩人オシップ・マンデリシュタームの『時のざわめき』から…
「私の願いは、自分のことを語るのではなく、時代のあとを辿り、時のざわめきとその芽吹きを辿ることだ。私の記憶は、あらゆる個人的なものを憎む。(…)雑階級人にとって、記憶は無用である。彼には自分の読んだ本のことを語るだけでことたりる。それで伝記は完成するのだ。」*1
『アーベーセードゥルーズ』でドゥルーズが、自分の言葉みたいに語っていました。

「私と時代との間には、時のざわめきに充たされた深淵、深い裂け目が口を開けている。それは、家族と、家庭的な古文書にあてがわれた場所だ。だが私の家族が、何を言いたいと願っただろう?私は知らない。それは生まれつき舌足らずだった。だが実際には、彼らには言うべきことがあったのだ。私と私の同時代人の多くが、生まれながらの舌たらずに苛まれている。われわれは、話すことではなく、囀ることを教わった。そして、しだいに高まりゆく時のざわめきに耳を傾け、その波頭の泡に白く洗われて、やっとわれわれは言葉を手に入れたのだ。」*2
『アーベーセードゥルーズ』でドゥルーズが朗読していました。マンデリシュタームにとっても詩は、なによりも聴覚的なものだったのでしょうか。




モンテイロの『白雪姫』では、冒頭に示される雪の上のロベルト・ヴァルザーの死体の白黒写真からお伽噺で語られる死せる白雪姫の闇へと連なる黒画面と、すべてを燃え立たせる陽光である女王からラストに示される大木の葉群に射す陽光へと連なる青画面が、交互に現れながら劇が進行してゆき、やがて植物を表す緑の服の狩人の仲介で女王(陽光)と白雪姫(大地)の和解が成り立つと、青画面から、かすかではあるけれど次第に明瞭に、水のさざめき、犬の鳴き声といったもの音が聞こえてきます。これと強いコントラストをなすように、ラストでは一切の音は消され、完全な静寂のうちに、冒頭に示された原作者ヴァルザーの死体が映画をとおして蘇ったかのようにモンテイロが大木の前に現れ、意味不明の仕草をして退場した後、葉群に射す陽光がフィックスで捉えられます。

『ラスト・ダイビング』では、声を取り戻した水の女ファビエンヌバーブ)が、ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』からディオティーマの手紙を読み、それに応じてルイス・ミゲル・シントラの声がヒュペーリオンの手紙を読み始めると、フラミンゴの舞う干潟の映像が黒画面に替わり、イメージは声に場を明け渡すことで映画は終わります。

*1:『時のざわめき』中央公論社、1976、96頁、若干表記変更の上引用。

*2:同、96-97頁