声/ソクーロフ

ナルシスとエコーの神話

ナルシスに恋したエコーは、ナルシスの言葉を反復することしかできません。ナルシスは水に映る自分の顔を、見知らぬ他者と思って恋します。きみはだれとナルシスが聞くと、きみはだれとエコーが反復します。ぼくはナルシス、ぼくはナルシス、きみが好き、きみが好き。水=スクリーンに映るイメージに恋して、それだけを盲目的に見つめ、ついには水仙に変身するナルシス。ナルシスの言葉を反復しながら、声だけの存在になるエコー。映画におけるイメージと声の関係にどこか似ているような気もします。
エイミー・ジーリング・コフマンの映画『デリダ』で、デリダはこの神話に関して、声とイメージという二人の盲人の物語として、相手の言葉の反復をとおして自分を語るエコーの狡知について語っていました。


でも反復する声は誰のものなの?エコーの?ナルシスの?それとも水に映るイメージの?


ゴダールは『映画史』の最終章で、映画の余白とかかわる「もうひとつの映画」について語りながら、それを昼に対する「朧月の物語」あるいは「隠れた頁」に喩えていましたが、フランス語で「隠れた頁」と訳されたアレクサンドル・ソクーロフの映画『静かなる頁』において、ドストエフスキーの『罪と罰』の映像化の下に隠された「静かなる頁」とは、ほとんど全編を流れる水のさざめき、それと重なる少女の「静かな美しい声」によって、じっと耳を澄まし、聴くべきものとして構成されていました。ペテルブルグを流れる運河をたゆたいながら、『エルミタージ幻想』のラスト同様、まるでこの街そのものが漂っているかのように始まるこの映画では、運河のさざめき、吹雪く海の波の寄せ返しが、それを声として聴くすべを知る少女をラスコールニコフのもとへ導き、やがてその少女の声とひとつになって、水辺に横たわる彼を浸し包み込みます。ゴダールが「全世界を抱擁する」「もうひとつの映画」を、なによりも聴覚的なものとして、「コンポジションの中に時間を聴く耳を示し、時間を聴かせ、それを未来に出現させる」ものとして構想していたように、ソクーロフにとっても映画は、歴史の下に隠されたペテルブルグのささやきに耳を傾けることなのでしょう。