ジョアン・セザール・モンテイロ

monteiro

パリのバザール・オテル・ド・ヴィル(BHV)の裏手にある映画館ラティーナで、ジョアン・セザール・モンテイロ追悼上映があったおりには、支配人シルヴィアさんやスタッフの方から、このポルトガルの監督の生前のエピソードをいろいろ聞くことができました。リスボンムルナウの『ノスフェラトゥ』上映がオーケストラ演奏付であった時、その演奏があまりにもひどかったので、マックス・シュレック体型のモンテイロが怒って舞台に上がり、スクリーンからノスフェラトゥが出てきたかのように演奏者たちを殴り始めたとか、はじめてラティーナで作品上映をした時、雨のなかモンテイロが通りの向かいにじっと立って、お客が入るのを嬉しそうに眺めていたとか…。モンテイロの魅力は、ノスフェラトゥのような変態性の外観とチャプリンのような優雅な仕草とやさしくリズミカルなセリフ回しにあるでしょう。役者にセリフを言わせる時、彼はわざわざ音楽をかけて、リズム、抑揚、音色に細心の注意を払うよう指示したと聞きました。ジャン・ルノワールジャン・ユスターシュのインタビューに答えて、『マッチ売りの少女』のカトリーヌ・エスランにメトロノームのリズムに合せて演技させたと語っていましたが(ユスターシュ『「マッチ売りの少女」への後書き』)、赤坂大輔の言う「上演の映画」の作家としてモンテイロが、ルノワールユスターシュの系譜に連なることは言うまでもありません。そう言えば、彼の初期作品『死人の靴を待つ者は裸足で死ぬ』は、『ママと娼婦』が撮られる3年前に、すでにそれを先取りしているように見えました。

『神の結婚』で「神」を演じる役者を探していたモンテイロに、自身が演じるよう勧めたのはオタール・イオセリアーニだったといいます。モンテイロの映画には、キリスト教を換骨奪胎したバタイユ的な無=神学とギリシャ的異教性が入り混じって、それが彼をパゾリーニに近づけているのでしょう。彼の無=神学は、初期の『シルヴェストル』から『ラストダイビング』、遺作『往き還り』にいたるまで、スクリーンの向こう側からこちらを見つめる無数の眼の存在によって示されていると思います。佐藤真の『SELF AND OTHERS』でインクブロット模様に似た一本の左右対称形の木に不在の牛腸の眼差しが宿っていると見えたように、モンテイロの映画に遍在する無の眼差しは、いつのまにか見ることが見られることに、スクリーンがカメラに変容しているという逆転現象を引き起こします。