キム・ギドク

キム・ギドクの映画は反復によって作られています。『春夏秋冬…そして春』では、湖の中央に島のように浮かぶ寺院と岸辺のほとんど水没している門の間を、僧侶と小僧が小船で幾度となく往復し、『魚と寝る女』では、湖面にやはり島のように点在する釣り小屋と岸辺の管理小屋との間を、女が小船で往復します。『サマリア』では、小船の代わりに自動車が、死んだ親友の分身として弔いのために売春する少女を、家から学校へ、男たちのもとへ、そしてラストの感動的なカーチェイスへと導いて行きます。キム・キドクの魅力の多くは、この小船の往還のたゆたうリズムによって生み出されていると言えるでしょう。『受取人不明』で犬の売り手と屠殺場の間を往復するバイクも、『悪い女』で民宿に住み込みで働く娼婦の夜ごと客を取る行為の反復も、その変奏にほかなりません。
その往復、反復の中で、さらに様々な反復がおこります。『春夏秋冬』の小僧は成人して師の僧侶を反復し捨て子を引き取り育て始め、幼年時に小動物に石をくくり付けて死なせた罪を自分の体に石をくくり付けることで贖います。『魚と寝る女』のヒロインは男を魚のように釣り上げた後、今度は自分が釣り上げられ、『受取人不明』の犬屠殺人は犬たちに綱を引かれて縛り首になり、『悪い女』で娼婦を敵視していた民宿の娘は、いつのまにか彼女の分身として客を取ってしまいます。ここに仏教的な因果応報、輪廻転生を見ることは簡単ですし、『春夏秋冬』はそのおかげで大ヒットしたのですが、キムの反復・分身への執着は、むしろ、あのたゆたうリズムから生じる映画的運動をさらに深化させ、反復そのものを映画の本質として露呈させようする前衛性に由来していると思います。その運動が頂点に達した時、奇跡のように空から降ってくる雪の美しさを前にしては、もう言葉もなく放心するしかありません。

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『略称 連続射殺魔』で永山の少年時代の風景に、照りつける日差しとともに大輪のひまわりの映像が繰り返し挿入されてるのを見て、中原中也の「少年時」という詩の身体感覚を思い出しました。
  夏の日の午過ぎ時刻
  誰彼の午睡するとき、
  私は野原を走しつて行つた…

  私は希望を唇に噛みつぶして
  私はギロギロする目で諦めてゐた…
  噫、生きてゐた、私は生きてゐた!





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思考装置としてのスクリーンとプロジェクター。スクリーンへと投射されてはじめて形をなす思考というのがあるのでしょう。reflectionではなくprojection、スクリーンという隔たりへ向けて投げ出され、宛てられてこそ、「形をなす思考、思考する形」(ゴダール)。