ベンヤミン 鏡

ベンヤミンはルドンについてこう言っています。
「パサージュが鏡に溢れており、そのために空間が信じられないほど拡張され、それだけに方向を定めることが困難になるということ。(…)この空間に置かれたくすんで汚れた鏡のなかで、事物はカスパー・ハウザーの視線を無と交わしあうのである。(…)ルドンほど、無の鏡をのぞきこむ事物のこうした視線を受けとめ、事物であることと無であることとの結託のうちに忍び込むすべを心得ている人物はいない。」*1
映画は存在と非在の中間に位置するものとして、「事物であることと無であることとの結託のうちに忍び込」みます。ジャック・リヴェットの『アウト・ワン:スペクトル』では、海辺の館にある合わせ鏡の左右対称の部屋に女が入ると、突然電話が鳴り、受話器から死んだはずの人の声が聞こえてくるというシーンがありました。『Mの物語』でも、ヒロインのエマニュエル・ベアールは、自分が死んだ部屋と同じ部屋のコピーを作ります。ベンヤミンのパサージュのようなこの空間で、存在と非在は互いの分身として交換され、死者の蘇りが起こります。
「セーヌは、パリの大きな、つねに目覚めている鏡である。来る日も来る日も、パリはその堅固な建物と、その雲の夢とを、映像としてこの河に投げかける。河はこれらの供物を寛大に受け取り、そしてそれらを、自分の好意のしるしとして、千のかけらに砕く。」*2
こんな映画が見たい。『ママと娼婦』のセーヌ河が、近いかな?



『川獺』(ベンヤミンの映画的ワンシーン)
「川獺はいつでも、水の深みに不可欠の存在であるかのように、きわめて多忙だった。しかし私は、何日間でも朝から晩まで額をその格子に押し当てて、彼をいくら見ても見飽きることはなかったろう。そしてこの点でも、彼は雨との密やかな親縁関係を証明していた。(…)私は飽くことなくこの一日を眺めつづけた。私は待っていた。雨足が弱まるまで、というのではなかった。もっとたくさん、ますます激しくザーザーと降るようになるのを待っていたのだ。私の耳には、雨が窓ガラスを打ち鳴らし、樋から迸り出て、ごぼごぼと排水管に流れ落ちる音が聞こえていた。たっぷりの雨に包まれて、私はまったく安全に守られていた。すると私の未来が、揺り籠のそばで歌われる子守唄のように、私の耳に響いてくるのだった。」*3

*1:『パサージュ論』岩波現代文庫第3巻、383頁

*2:ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション3、1997、239頁

*3:同、528-529頁