マラルメのマネ論

ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で、19世紀に絵画が大衆によって鑑賞されるようになったことは、本来アウラの芸術である絵画の本性に反しており、むしろ、映画こそが大衆によって受容されるにふさわしい芸術であって、映画は大衆がそこにみずからの真の姿を認める鏡であると同時に、複製技術時代における知覚の変化(ショック作用)に慣れるための訓練の場となると言っていますが、ここでベンヤミンが映画に与えたのと同じ機能を、マラルメはマネの絵画に見ています。
「遠からぬ未来、もし彼が十分に長く絵を描き続け、公衆の――いまだ因襲性によって蔽われている――目を教化し続けるなら、もしも件の公衆がその時、民衆の真の美しさを、健康で堅実なあるがままの姿で見ることに同意するなら、市民階級の中に存する優美さもその時、公認され、芸術において価値あるモデルとして取り上げられるだろう(…)」*1
つまり、マラルメは、マネの絵画が、大衆を教化して因襲的な知覚から解放し、絵画の中にみずからのあるがままの姿を発見させるだろうと言うのです。そのために芸術家は何をすべきかというと…
「目は、それが見た他のものすべてを忘れて、面前の物の教えるところから新たに学ばなくてはならない。目は記憶からみずからを解き放って、いま見る物のみを見なくてはならない、それもまるで初めて見るかのように。そして手は、先立つ熟練のすべてを忘れて、意志のみによって導かれる非個人的な抽象作用とならなくてはならない。芸術家自身はと言えば、彼の個人的な感情、彼の特殊な嗜好などは、さし当り消散され、無視されるか、彼の個人的生活の享楽のために取り除けておかれるかである。」*2
芸術家は、因襲的なものの見方を忘れて、いま目の前にある事物を、初めて見るかのように見なくてはならない、ここまではわりと誰でも言えると思うのですが、すごいのはこの次、「先立つ熟練のすべてを忘れて、意志のみによって導かれる非個人的な抽象作用とならねばならない」。マラルメは繰り返し同じことを言います。
「その目標というのは、一時のいたずらや世間騒がせではなく、自分の作品に自然で一般的な法則を印しようとたゆまず努力することによって、個性よりはむしろ典型(タイプ)を探し出そう、そしてそれを光と空気に浸そうと言うのだ。」*3
「これこそは、独創性というものを二重の意味で廃絶して、みずからの個性を、自然それ自体の裡に、あるいは、これまで自然の様々な魅力を知らずにいた群衆の凝視の裡に、喪失しようとする一人の画家の至高なる独創性である。」*4
「天才の作品一つ一つは、彼が特異性というものを廃棄するが故に特異であって、一目見たところではあらゆる時代のあらゆる流派の中に認知されるもの(…)」*5
芸術を個性、独創性、主観性から解き放つこと。マンデリシュタームが、「私の願いは、自分のことを語るのではなく、時代の跡を辿り、時のざわめきとその芽吹きを辿ることだ。私の記憶はあらゆる個人的なものを憎む。」と言うのはこれとほぼ同じ意味でと思います。岡崎乾二郎が、「あなたは、あなたの芸術の老衰の中での第一人者に過ぎない」というボードレールがマネに宛てた手紙を引用しながら語っていた、近代的自我が崩壊した地点から始まる真に近代的主体とは、ここでマラルメが言う「非個人的な抽象作用」としての主体、「みずからの時代の感情と直接に交流する状態にある、新しい非個人的な人々」*6にほかならないでしょう。そのような無名の人として「群集の凝視」そのものとなり因襲を破壊することは、「明日来る者たち一人一人が、ひとつの普通選挙に参加する強力な多数者たちの中で世に知られぬ単位であることに(…)同意する」*7ため、というマラルメの政治的立場表明が同時にここではなされており、民衆が「まれな洞察力をもって」印象派を「非妥協派」と呼んだことに彼は、「これまで無視されてきた民衆がフランスの政治生活に関与する」「十九世紀の終結期全体の栄誉」の芸術面での現象を見、それに「急進的かつ民主主義的」という呼称を与えています*8


マネ作『洗濯』について
「いたるところで、明るく透明な大気が、人物、服、葉群と闘っており、それらのものの実質と堅固さのいくばくかを、わがものとするかに見える。それらのものの輪郭が、隠れた太陽に焼き尽くされ、空間によって濫費されて、震え、溶け、周囲の大気の中へと蒸発する一方で、大気は、形象たちから現実性を奪取しながら、なお、それらのものの真実の様相を保全するためにそうするかのように見える。」*9
このマネの絵画を、映画と言い換えてみたい誘惑にかられます。「理念」と「現実」、非在と存在の中間に幽霊(スペクトル)のように現れる事物の「様相(アスペクト)」、その生死の、明滅の反復が投影される「明るく永続的な鏡面」。
「私は絵画という明るく永続的な鏡面に反映させるだけで満足する、たえず生きながら一瞬ごとに死んでゆくもの、「理念」の意志によってのみ実存し、それでいて私の領分において、自然の唯一の真正かつ確実な価値をなすもの――「様相」を。」*10

*1:筑摩書房マラルメ全集Ⅲ、432-433頁、引用に際し訳文に若干変更を加えた箇所もある。

*2:同、430頁

*3:同、433頁

*4:同、438頁

*5:同、439頁

*6:同、444頁

*7:同、445頁

*8:同、444頁

*9:同、435頁

*10:同、446頁