『蘇りの血』

 豊田利晃が『蘇りの血』で、魯迅の『鋳剣』を映像化しました。傑作『空中庭園』を撮った後、末期症状のマスコミが君臨し没落へとひた走る日本という愚かな風土で、「餓鬼阿弥」のような緩慢な歩みをもって「蘇り」を果たした豊田の新作を祝福したいと思います。特にTWIN TAILの音楽が素晴らしかった。魯迅の『故事新編』に収められた『鋳剣』は、もちろん鈴木清順と具流八郎が1969年に脚本化し、高倉健主演、アフガン・ロケを予定しながら実現できなかった企画の一つですが、花田清輝もまた1973年にこの作品を戯曲『首が飛んでも――眉間尺』として翻案しており、翌年、花田の死後に上演されています。花田はこの翻案に際して、「魯迅の作品のなかにはトラジ・コミックなものがあるんだけれども」、自分ならもっと「コミックなもの」に重点を置くと述べ、そのとおりの作品に仕上げています。父の仇打ちのため、「奇術師」にみずからの首を与えた眉間尺が、煮えたぎる大釜の中で王の首と闘うも、眉間尺不利と判断した「奇術師」が、今度は自分の首を切り落とし、助っ人として大釜の戦いに参戦し、二首が力を合わせ暴君の首を打ち破るという『鋳剣』の説話に、なぜ花田はそれほど愛着を抱いたのでしょうか。自死の潔さとか言う人もいるようですが、花田がこれをあくまでコメディーと見ていたことを考えれば、どうも的外れのようです。むしろ、花田がベルグソンの『笑い』を参照しながらドタバタ喜劇について述べているこんな一節との関連で読むべきでしょう。 
 「元来、ドタバタ喜劇のおかしさは、ベルグソンのいわゆる「生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの」のおかげであり、登場人物が、「物」に変形し、それらの「物」が、きわめてリズミカルに、とんだり、はねたり、ぶつかりあったりする点に特色がある。ベルグソンは、『笑い』のなかで、サーカスの道化役者の二つの曲芸の場面をとりあげ、もっとも単純なかたちに還元して、ドタバタ喜劇の本質のいかなるものであるかを示している。第一の場面においては、道化役者たちは、あきらかにクレシェンド(漸次強音)をつくる一心で、一本調子の加速度的リズムにつれて、いったり、きたり、ぶつかりあったり、倒れたり、あるいはふたたびはねかえったりしていた。そして、しだいしだいに観衆の注意がひきつけられていったのは、このはねかえりであった。だんだん、ひとは生きている人間どもを相手にしているのだということを忘れていった。落ちたり、ぶつかりあったりしているなにかの荷づつみを考えていた。そこからこのヴィジョンは明確になってきた。かたちがマルくなり、からだがころげあって、まるでかたまりあって球になるようにおもわれた。最後に、その全場面がうたがいもなく無意識にそこへと進展していった形象、すなわち前後左右に投げあい突きあっているゴム風船があらわれた。(…)」(「胆大小心録」、岩波文庫花田清輝評論集』、152〜153頁)
 これを読むと、カルメロ・ベーネの『マイナスのハムレット』を思い出します。