振り返り

 振り返るとはどういうことでしょう?赤坂大輔は『Mask』と題された短編で、「ロッセリーニはバーグマンを振り返らせた、その後、彼はポール・クローデルの『ジャンヌ・ダルク』を作った。溝口は絹代を振り返らせなかった。」と語っています。*1歩くバーグマンを振り返らせたロッセリーニは、やがて、死後の世界からジャンヌ・ダルクにみずからの生涯を振り返らせるヘーゲル的なクローデル作品を映画化します。しかし、溝口の絹代は、どこまでも見る者に背中を向けたまま歩みを進める、まるで顔を見られるのを拒むかのように。どちらがブレヒト的瞬間なのかと問う声に、「ザッツイ、ザッツイ、ザッツイ・・・」という幽霊的反復が応答します。怪談映画ならば、振り返っても顔がないということがあるでしょう。あるいは、この『Mask』の登場人物のように「マスク」で顔が見えないということも。後ろ向きの顔を見たいという観客の好奇心を裏切ること。それはひとつの顔にそなわった過去を振り返って見せることの回避へと向かうのでしょうか。ロトの妻は好奇心に負けて過去を振り返り塩の柱となりました。ミネルヴァの梟的振り返りは、過去を一回限りの死せる時間として白黒写真のように固定します。一方、シジフォス的な振り返りというのもあるでしょう。シジフォスが振り返って見るのは、永遠に反復される未来です。この無限反復の砂漠で岩と同化したシジフォスの顔は、砂に(あるいは「マスク」に)蔽われて見えないかもしれません。花田清輝はシジフォスを砂漠の糞ころがしと呼びました。「ファース(笑劇)をつくるためには、人間を「物」としてとらえる非情な眼が必要だ。シジフォスを、シジフォスとしてではなく、クカラベ・サクレとして――あのファーブルの『昆虫記』の冒頭に登場して、糞の玉を押しあげていってはころがりおちる、カブトムシのようなものとしてとらえる眼がなければならない。」糞ころがしに変身したシジフォスが、顔のないまま振り返る、ブレヒト的瞬間とはそんなファースの一場面ではないでしょうか。