浜野佐知『こほろぎ嬢』

 東京にいた頃の尾崎翠は、フランク・ボザージの『第七天国』をもじって中野の武蔵野館に「第四天国」を希求するほど一人映画館の暗闇で過ごすのを好みました。彼女は、「雲とか、朝日のけむりとか、霧・影・泡・靄なんか」に似た「膜の上にちらちらする影の世界に、心臓までも呑まれてしまった」「漫想家」と自分を称し、連載していた映画時評『映画漫想』ではマックス・フライシャーサイレント映画『世界の一億年』についてこう書いています。

「私」がすすになり、「私」が星になり、「私」がけむりになり、「私」が氷河の一片になり、「私」が苔になり、「私」がカメレオンになり、「私」が土人になる。文化のはしくれも匂っていない世界は、観客にナイヴな感情移入をはたらきかけることに巧みだ。観客の心を、一秒のあいだでもいい、完全に「苔」に、「怒り」に、「笑い」に没入してくれる映画は、そう多くはないのだ。(『映画漫想(五)』)

 尾崎にとって映画は、「私」がスクリーン上の植物や爬虫類や煙に没入し、それら事物と一体になることを可能にしてくれる装置としてあったようです。そう言えば、彼女の作品の登場人物たちも、この映画を見る「私」と同様、いつも周囲の事物と一体化しています。浜野佐知が『こほろぎ嬢』として映画化した短編『歩行』と『地下室アントンの一夜』に登場する詩人・土田久作は、「悲しい時に蟻やおたまじゃくしを見ていると、人間の心が蟻のこころになったり、おたまじゃくしの心境になったりして、ちっとも区別が判らなく」なり、「好い詩を書けなくてぼんやり考え込んでいるとき、僕は、机の向こうに垂れている日よけ風呂敷に僕の精神を吸い込まれて、風呂敷が僕か、僕が風呂敷か、ちょっと区別に迷う」と言います。また、短編『こおろぎ嬢』でも、主人公が傾倒する英国詩人うぃりあむ・しゃあぷ氏は、まくろおど嬢という女流詩人を内に秘めた多重人格者であり、時に男として、時に女として恋の詩を贈り合い、『第七官界彷徨』の女の子は、このまくろおど嬢の写真を見ているうちに、「写真と私自身との区別を失って」、「私の心が写真の中に行き、写真の心が私の中にくる心境」になってしまいます。尾崎翠が描く「風や煙」のような「私」は、何にでも変身し同化できる存在としてあるゆえに、「人間の肉眼というものは、宇宙の中に数かぎりなく在るいろんな眼のうちの、僅か一つの眼にすぎない」という宇宙的な視野の広がりをもっています。浜野佐知が映画『こほろぎ嬢』で、『地下室アントンの一夜』のこのさりげなく書かれた一文を強調して取り上げたのも、脱人間中心化された映画的主体の可能性をそこに感じたからでしょう。