ファスビンダーとアメリカ

1977年7月、ファスビンダーシュピーゲル・インタヴュー

F:ぼくはもうこれ以上ドイツでは暮らしたくない。これはたぶんぼくのまったく個人的な感情だけど、ここは独特の仕方で田舎的なんだ。そう感じているのはぼくだけじゃない、作りたい映画が、どんどん作れなくなっていくことは、まったくはっきりしている。
S:それでもあなたは大規模な予算でナボコフの『絶望』を撮りました。
F:ぼくがそれに加わったのは、もっと零細なプロデューサーのもとでやるより、より大きな自由を得られるからだ。(…)
S:まさにその自由をあなたはハリウッドに見出そうと望んでいるのですか?
F:思うに、ハリウッドには、まったく明確に商業的関心しかないので、より大きな自由を持てる。ダグラス・サークの言葉が4年前から耳に残っている。ぜひアメリカへ行くべきだ。やつらがお前で金儲けしようとしている時なら、やつらは儲ける可能性をお前に提供してくれると、彼は言っていた。それが自由と言えるのかどうかは問題じゃない。ここドイツで、自分は自由かもしれないと無理に思い込んでいるよりも、むしろこうした仕方で不自由でありたいんだ。(…)

この年の9月、RAFによるダイムラー・ベンツ重役ハンス=マルティン・シュライヤー誘拐事件、10月、共闘するPFLPによるルフトハンザ機ハイジャック事件、収監中のRAFメンバー11人の釈放要求に対し、ヘルムート・シュミット政府はテロ対策特別部隊を投入してハイジャック犯を鎮圧、獄中にいたバーダーら3人のメンバーが「自殺」したと発表。彼らの「自殺」の知らせは、ファスビンダー、フォルカー・シュレーンドルフ、アレクサンダー・クルーゲらに衝撃を与え、共同監督作品『ドイツの秋』が生み出されます。この事件をきっかけにファスビンダーアメリカ行きの夢を捨て、ドイツにとどまる決心をしたとのこと。
Die 13 Jahre des Rainer Werner Fassbinder, Peter Berling, Bastei-Lübbe- Taschenbuch, 1995, p.340, p.346.