ペーター・ネストラー『時の擁護』

ネストラーによるダニエル・ユイレ追悼作品『時の擁護』(2007)のあらすじです。

映画は2004年4月ストックホルムで開かれた討論会の場面から始まる。「時間は唯一の武器である。金持ちはたえず投機するのに忙しく時間がない。時間があるということは強さなのだ。ただし、その代償は神経と骨で支払わねばならない。」と語るストローブ=ユイレ
ネストラーと女優ウルズラ・イリェルトの声の掛け合いによるナレーションで二人の生涯が語られる。ダニエル・ユイレとジャン=マリー・ストローブは一心同体だった。2006年10月9日ダニエルは死んだ。60年代初頭に二人はドイツへ来た、『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(1968)を撮るために。ストローブがフランスを去ったのには別の理由があった。「私が去ったのはアルジェリアに友人がいたからだ。1954年、アルジェリア戦争が勃発し、私はアルジェリアが正しいと確信した。それに、もしフランスを去らなかったら、ダニエルに捨てられていた。仕方がなかった。まずは自分の確信、そしてダニエルへの愛が理由だった。ダニエルがいなかったら映画を撮っていなかったろう。私はあまりにも怠惰だった。」
彼らは10年間、バッハ映画の資金集めのために闘った。その間、処女作『マホルカ=ムフ』(1962)が成立し、作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンが理解を示した。「私が興味をもったのは、この映画が、音楽同様、時間の独自のコンポジションであるからだ。すべての要素が代替不能な、無視できない瞬間に現れる。装飾はない。すべては主要テーマだと、映画中で言われるとおりだ。」バッハ映画の主役グスタフ・レオンハルトとストローブの白黒写真。古楽演奏運動のパイオニアでもあるレオンハルトの演奏シーン。 
1978年、二人はローマへ引っ越し、シェーンベルクのオペラ『モーゼとアローン』(1974)を撮影する。以後、コルネイユヘルダーリンブレヒト、フォルティーニ、パヴェーゼヴィットリーニ、デュラス、セザンヌ、ガスケ、カフカなどのテクストに依る作品、さらに新たなシェーンベルク・オペラ映画が成立する。
パヴェーゼのテクストに基づく2作品『雲から抵抗へ』(1978)、『あの彼らの出会い』(2006)に焦点が当てられる。どちらもパヴェーゼの『レウコとの対話』の一部を用いたもの。戦後1945−47に書かれたこのパヴェーゼ最後の大作では、ギリシャ神話の登場人物が人間たちと、自然について、不死について、死すべき人間の運命について27の対話を交わす。パヴェーゼによれば「神話とはこの地上で繰り返し何度も生起しながら、なおかつ一回限りの、時間を越えたものである、毎年繰り返される祝祭が、そのつど初めてのこととして、祝祭の時間、時間を越えた神話の時間の中で祝われるように。神話が物語あるいは奇跡譚になる以前、それは素朴な規範、重大な意味を担った行動様式、世界を聖なるものとする儀式であった。それはまた人間がそれによってのみ営みを成就できる磁力の律動でもあった。子供は自分が神話世界に生きていることを意識しない。子供は幼年期の楽園についてなにも知らない。大人になってはじめてこの楽園に生きていたことに気づかされる。その理由は、子供は自分が置かれている状態に名前を与えるよりもすべきことがあるからだ。子供はこの状態を生と世界を通じて認識しなくてはならない。もちろん子供は世界の現れを、事物との直接的原初的な接触によってではなく、これらの事物の記号をつうじて、つまり、言葉と絵画的表現あるいは物語によって知るのであるが」。この朗読に合わせて提示されるドイツ表現主義の画家オットー・パンコックの絵、彼は1936年描くことを禁止された。パヴェーゼは、1935年ファシストによって南イタリアカラブリアに追放される。1945共産党入党、40才でトリノのホテルで自殺。自分が信じていたイタリア共産党が過去の重荷を受け止めず、進歩と発展へ逃げ込んだことに我慢ならなかったから、とストローブは言う。
1978年、最初のパヴェーゼ映画『雲から抵抗へ』から3つのシーンの引用、ネフェーレ=雲の女神とイクシオンの対話、オイディプスと盲目の預言者テイレシアスの対話、第2部<私生児>と少年チント。
ストックホルムの討論会。「われわれが作る映画の問題点は、知的であることではなく、あまりに単純であることだ。それらは感覚的だ。そのあらゆる瞬間が意味しているのは、光と運動を見てくれ、音に耳を傾けてくれということだ。」
『雲から抵抗へ』から27年後、彼らはヘルダーリンを経由してパヴェーゼへと立ち返る。『レウコとの対話』の最後の5つの対話をもとに、『あの彼らの出会い』が成立する。撮影されたのは再びトスカーナの小さな町ブッティ。まず劇場用に演出された本作品の出演者は、農民、職人、市長、劇場支配人たちである。一か月の読み合わせとリハーサル、その後丸一年、彼らはテクストとともに生活しながら夜と週末に集まって読み合わせ練習、翌年さらに3カ月のリハーサル。2005年復活祭にブティで4回上演後、10日間の休憩を挟んで撮影が開始された。カメラはレナート・ベルタ、音響はジャン・ピエール・デュレ。撮影現場は、会話、リズム、息遣い、風の音、昆虫の声、鳥の羽ばたきなど、様々な音の宝庫であった。
ストックホルムでの討論会。「聞こえる音とこの音を発する人々は切り離せない。ベルイマンスウェーデン語の『魔笛』とは正反対だ。これはむしろ、ルノワールと繋がっている。「私は宗教もなにも信じていないけど、ただ一つのことを信じている」、とルノワールは言っていた。(灰皿を落とすストローブ)聞いた音と見た物が切り離せないということ、これがわれわれの映画だ。」「何かが形を見出さない限り、その何かは存在しない。トマス・アクィナスは言う、魂は体の形であると。魂は体を離れて蝶のように存在するのではない。生きるということはこの形を守ることだ。このことは登場人物や仕草、また音綴についても当てはまる。形に到達しなくては、思考も何も存在しない。」
夥しい書き込みのあるユイレのスクリプト。『あの彼らの出会い』撮影直前に演出をつけるユイレ。
ペドロ・コスタが、編集室での二人の(特にユイレの)仕事を撮影した『あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001)の副産物として、短編『六つのバガテル』(2001)が成立した。「贅沢とは、どんな理由にせよ、進歩のためであれ、革命のためであれ、ぜったいに諦められない何かだ。陰鬱な世界に閉じ込められているわれわれはただこう言うことができる、―まだ何か他のものが、過去現在未来を通じてあり続けると。それを私はエムペドクレスの共産主義ユートピアと呼んでいる。今日に至るまであらゆる社会主義の試みは、人々に向かって犠牲を払わねばならない、諦めねばならないと言ってきた、今日ではもっとひどくて、もし幸福になりたければ、飲み水もきれいな空気も、余暇も静寂も諦めねばならない、そうすれば最高に素晴らしい世界に住めると言っている。しかし、そんな素晴らしい世界は存在しないことを、われわれはチェルノブイリ以後知っている。想定よりいいとか、以前よりもいいとかいうのは真っ赤な嘘だ。まさにこのことにベンヤミンは抵抗した。社会主義共産主義の仲間に彼はこう言っていた、革命は進歩へ向かっての前進ではなく、過ぎ去ったものを目指しての虎の跳躍だと。君がわれわれの贅沢と呼ぶものは、われわれが何も失うものをもたないということだ。ブニュエルが息子に説得されてニコラス・レイと食事した時、映画監督という職業に関して聞いた最悪のことは、ハリウッドでは数百万ドルで映画を撮ったら、次回はそれよりさらに300万ドル以上多くかけて撮らねばならないと、レイが打ち明けたことだった。それが昇進ということだからだ。もちろんわれわれはいつもその正反対をしている。これこそ贅沢だ。つまり、贅沢とは自由であることだ。特に現代世界では。」