ネストラー

写真的固定ショットが映画の断片化の方向に働くのに対して、語りや演劇的再現は、それぞれが一つのモナドとして完結しながら連結され、映画中に一定の持続性を導入します。例えばペーター・ネストラーの作品の多くでは、ある土地に根差した農民の姿が写真的断片のモンタージュで示される一方で、そこから流れ去る川のイメージと呼応するようにナレーションによる語りあるいは音楽が持続的運動として提示されます。
ドゥルーズは、初期のトーキー映画において声は本来、「個別的性格を解消する」、「完全に線的な」「機械状化された」声としてあったと言います(「音楽について」、批評空間II-18)。ネストラーの映画に聴かれる声もまた、日々の労働の中で「個別的性格を解消」された農民の存在様態を模倣するような、抑揚のない中性的なものに近づいています。リオタールは、フロイトが「鼠男」エルンストの症例分析から聴き取った「情念の声」=「フォネー」を、ブランショベケットの文学作品における語りの「中立の声」と結びつけていますが(『インファンス読解』)、リオタールの言うこの「舌足らずな分節以前の声」と映画の「機械状化された」声とはやはりどこかで繋がっているのでしょう。